鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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ら1606年の冬か春頃まで「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」の制作にかかっ注(1) Longhi, R., "Questi caravaggeschi I, Registro dei tempi II, I precedenti", ォの『芸術論』(1584)には,この祭壇画のことが言及されている。ロマッツォはこの作品の収蔵先かサン・フェデーレ聖堂であると記しているが,1674年に出版されたトッレ(C.Torre)のIlTrattato di Milanoにはこの作品の収蔵先がサンタントーニオ・アバーテ聖堂となっていることから,17世紀に祭壇画の移動が行われたと考えられている。フリードレンダーは,カラヴァッジオがフィジーノの「蛇の聖母」を自分の作品のモデルにしたときには,既にこの移動は終わっていたことを推測している。彼はその理由を述べてはいないが,サントーニオ・アバーテ聖堂は,当時ティアティン修道会の管轄になっていたことや,パラフレニエーリ同信会が旧サン・ピエトロ大聖堂内に所有していた祭壇は,もともと聖アントーニオ・アバーテに奉献されていたことなど,興味深い点を指摘している。一方,カルヴェージは例によってミラノのサン・フェデーレ聖堂はフェデリコ・ボロメオによって創設されたことと,ボロメオとフィジーノの密接な関係に注目し,カラヴァッジオがフィジーノの作品をもとに「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」を描いたのは,カラヴァッジオがロンバルディア時代から精神的支柱としてきたボロメオに対する一種のオマージュであると考えている。ていたらしいことと,同年4月8日にはこの祭壇画を完成させていたことが,次のドキュメントによって推測される。まず,1602年9月4日付けのG.D.ロッシから文学者のz.カステッリーニ宛の手紙のなかで次のようなことが語られている一法律家のA.ルフェッティは当時,療養中で自宅に奇寓させていたカラヴァ(4) 注5を参照。Pinacoteca, nn. 5-6, 258-320. Longhi, R., "Ambrogio Figino e due citazi-oni del Caravaggio", Paragone, n. 55, 36-38. (2) Friedlaender, W., Caravaggio Studies, Princeton, 1974, 194-195. Settis, S., "Immagini della meditazione, dell'incertezza del pentimento nell'arte an-tica", Pro沖ettiva,n. 2. 4-18. (3) フィジーノの「蛇の聖母」の制作年代は1581■84年のあいだとされる。ロマッツ(5) 1605年の8月末にジェノヴァからローマに帰ったカラヴァッジオは,同年の秋か-139-

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