つ。1471年3月13日の出発に始まるボルソのこの大旅行の様子については無名氏による所謂『フェッラーラ日記Diarioferrarese』,ボルソ自身による書簡,公証人ウーゴ・カde lo illustrissimo duca Borso』および『フェッラーラ公国の威厳の起源Originede la excelsa dignita del ducato de Ferrara』などに詳細な記述が残されている。これらの三,ボルソ・デステのローマ旅行それでは当壁画におけるサン・ロレンツォのフリーズからの引用は,当時のフェッラーラの歴史的,文化的コンテクストにおいていかなる機能を果たすのであろうか。当フリーズがスキファノイアに描かれ得た背景を考察するにはまず,この場面全体に何が描かれていたのかを知る必要がある。壁画南面右端に描かれたエンタブラチュアの上の区画は極めて保存状態が悪いが,マッゾラーニに模写においても断片的にしかモチーフの判読が可能でないこの場面に関して,近年ヴァレーゼが極めて興味深い仮説を提出した(図2〕(注3)。画面中央には教皇の三重冠を被り杓を持つ人物が見え,その左右に数人の立像および詭く貴顕が描かれているが,ヴァレーゼによれば,この場面は1471年にローマにおいて教皇によって執り行われた,ボルソ・デステヘのフェッラーラ公爵位授与の式典を表しているというのである。フェッラーラ君主ボルソ・デステは,既に1452年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世から,モーデナおよびレッジョの公爵位とロヴィーゴの伯爵位を得ていたが,彼は未だ,地元フェッラーラの公爵位を有さなかった。よってこの爵位の取得は,名声欲の強かった彼にとって悲願であり,彼は教皇庁にさまざまの働きかけを行った。しかし時の教皇ピウス2世との折り合いが悪く,それはボルソの最晩年にまで持ち越された。そして1471年4月14日,ついにボルソは,長年の夢であったフェッラーラ公爵位をピウスの後継者教皇パウルス2世から拝受する。パウルス2世はフェッラーラをヴェネツィアの脅威に対する前線とすべく,ボルソのこの要求を飲むことを決意したのである。教皇から教皇庁への招待を受けたボルソは宮廷をあげてローマヘと赴く。レッフィーニによる韻文年代記,詩人アリオストの叔父フランチェスコ・アリオスト・ペレグリーノによってエルコレ・デステに献呈された二篇の長大な著述『高名なボルソ公の幸運にして幸多きローマ入城Dictade la fortuna e felice entrata in Roma -5 -
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