ッジオが1605年に制作した「蛇の聖母」についての風刺詩をつくるよう,カステッリーニに依頼した。また,1605年10月24日付けの公証人の依頼調書からも,当時カラヴァッジオは道で転んだ際,誤って自分の剣で怪我をしてしまい,ルフェッティの家で療養中であったことがわかる。また,1605年9月28日付けのJ.グリマルディの覚え書きのなかに,新しいサン・ピエトロ大聖堂内のパラフレニエーリ同信会の祭壇のこと一“パラフレニエーリはカラヴァッジオに注文した「蛇の聖母」の祭壇画が設置されることになっている祭壇に備品を送る”ーが記されている。ドキュメントの内容は以下の文献に掲載されているものを報告者が要約した。Dell'Acquae Cinotti, II Caravaggio e le sue grandi opere da San Luigi (6) サン・ピエトロ旧聖堂においては,パラフレニエーリ同信会は聖堂入口近くに聖アンナに奉献した祭壇(ここは,聖アントニオ・アバーテにも奉献されていた)を所有していた。そこには,やはり聖アンナの聖画像が掛かっていたが,聖堂の改築(1605年10月の工事)に伴って,同信会はその祭壇を失う。パラフレニエーリは新聖堂内にも祭壇を所有することを希望したが,最初これはかなえられず,彼らは旧聖器室内に祭壇を移動させることを余儀なくされた。旧聖器室にあった祭壇のひとつは,教皇の命により聖アンナに奉献されたものであったが,そこには後ろに聖アンナと両脇にふたりの聖人たちのいる聖母子を描いた祭壇画が掛かっていた。10月には既に着手されていたと考えられる「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」(292X 212. 7cm)は,旧聖器室のこの祭壇(3.12m)に枠をつけて設置するには,大きすぎたので,同信会には結局,新聖堂内に新しい祭壇を与えられることになったのだろうとフリードレンダーは推測している。こうやって,度々自分たちの祭壇の位置を変えられたパラフレニエーリ同信会は,新聖堂内において,身廊右側,最先端(現サン・ミケーレ・アルカンジェロ祭壇がある場所)の場所に祭壇をえた。新旧サン・ピエトロ大聖堂内におけるパラフレニエーリ同信会の祭壇については,以下の文献を参照。Friedlaender,op. cit., 191 -192. (7) カラヴァッジオの伝記については,以下の文献に転載されているものを参照。dei Francesi, 1971, 121, 159-160. Spezzaferro, L., "La pala dei Palafrenier", Caravaggio e Caravaggeschi, col-loquio organizzato dall'Accademia dei Lincei, Roma, 1974, 125-137. Fliedlaender, op. cit., 227-266. Cinotti e dell'Acqua., Il Caravaggio e le sue -140-
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