雲門山は標高約430メートル,頂上に洞門があり,この洞門の西方に第1窟•第2窟,洞門の上部に第3窟•第4窟•第5窟が翌たれている。これ以外にも,第2窟と(599)が見いだされる。また,第5窟内には唐・開元19年(731)の銘文が残る。第2窟〔図2〕は,すでに本尊は欠失している。両脇には,菩薩立像が造られてい薩像を軸に考察をすすめながら,山東地域における隋様式の特徴を浮かび上がらせたいのである(注6)。1.雲門山石窟の現況これまでの雲門山石窟に関する報告は,まず大正時代に関野貞氏と常盤大定氏によって写真図版と共に紹介されたものがある(注7)。またシレン氏の図版にも掲載され(注8)'中国国内では閻文儒氏によって初めて解説され(注9)'最近は久野健氏や北進一氏らによって若干の考察がなされている(注10)。ここでは,はじめに現在の雲門山石窟の状況を概観しておきたい。形の穴がいくつも竪たれているがその中に像はない。現在確認できる銘文は,第1窟内に7つあり,その紀年銘には陥・開皇9年(589),10年(590),15年(595),19年脇に頭部が削られた菩薩立像が造られ,その外側に力士像が立つ。窟内には,いくつもの小仏寵が竪たれ,その中には独尊の坐像あるいは{奇像が造られ,また二仏並坐像が造られている寵もある。る。窟内には,小仏寵が竪たれ,その中には坐仏,{奇像,二仏並坐像が表されている。次に第3窟から第5窟までは,先の2窟に比べると造営の規模が小さくなり,屈んで入れるぐらいの大きさである。造像形式は,3窟ともに同様である。すなわち,本諄は椅像,その並びに僧形の立像が侍しており,本腺がある壁の両側の壁に菩薩立像,力士像が造られている。ただし第3窟のみ両側の壁には,菩薩立像と力士像の間に坐仏が造られている。壁面には,千仏が表されている。天井には,何も表現されていない。同形式のこれら3窟は,第5窟に残る開元年間の銘文から盛唐期の造営と考えられる。雲門山で第1• 2窟の造営が終わったあと,一時期中断していた造仏活動がこの時期に再開されたのであろう。折しもこの時期,済南の神通寺でも千仏崖の造営が行われており,山東地域の唐様式を考察する際の貴重な資料になることは言うまでも第3窟の間の岩の大きな割れ目の中には小さな仏寵が残る。また,岩肌に小さい長方第1窟〔図1〕は,本尊は坐像で現在は頭部がなく,また両腕も欠失している。両-144 -
元のページ ../index.html#154