ため肩から脚までほぼ直線に近いかたちになっている。一方,同じような長身の救世観音像では天衣を意識して外側に翻している。百済観音像の源流を考えるうえで考慮すべき特徴であろう。次に,菩薩像の胸飾に注目して,その変遷を追ってみたい。菩薩像を荘厳する際の手段として胸飾は菩薩像に必ず見られる表現である。雲尚石窟や龍門石窟の北魏窟あるいは単独の石仏や金銅仏など,北魏の菩薩像では宝飾類をつなげた首飾りという例は稀であり,その大部分がやや太めの環状の胸飾をつけている。東西魏になると前代にも少し見られたが,藤井有郡館の元象元年(538)銘交脚菩薩像のように太めの胸飾の中に放射線状の文様をほどこすなど,胸飾に文様を表す例が多く見られるようになる。次の北斉になると,東京国立博物館の天保三年(552)銘菩薩立像の胸飾のように幅が狭くなってくる。無論,こうした変化の中にもいくつかの例外はあるが,おおよそこうした変遷をたどる。この胸飾の変遷を概観すると,菩薩像に胸飾を表す際,通常は一本の胸飾しか頚に懸けないのである。しかし,隋代になると菩薩像の装飾性が増すと同時に,胸飾も大きく変化する。その変化とは,一本の胸飾を頚に懸け,さらにその胸飾にW字形の飾りをつけることである。雲門山石窟における第2窟の菩薩像の胸飾が,まさしくこれにあたる。この例を他に求めると,諸城県出土の菩薩像,クリーブランド美術館の菩薩像,MOA美術館の金銅菩薩像などがあり,すべて隋代の造像である。一方で,南朝の作例にはW字形のついた胸飾が確認できないことから,この胸飾はやはり隋代になって創案されたものと推測される。この表現が唐代になると,龍門石窟奉先寺の脇侍菩薩像の胸飾のようにW字形の部分が小さくなり,より洗練された表現に変化するのである。さらに雲門山に対峙する馬も山石窟の場合を見ても,北周の銘が残る第3窟の菩薩像では幅のある胸飾をつけるが,隋代の第2窟では胸飾の中に連珠を表し,さらに唐代の第5窟になると幅のある胸飾は消え宝飾類をつないだ胸飾に変化する。一方,日本の仏教彫刻の中にも菩薩像の胸飾には多様な作例が見られるが,その中でも法隆寺の夢違観音像や鰐淵寺の菩薩像あるいは一乗寺の観音菩薩像などが先に述べたW字形の飾りをつけた胸飾を懸けているのは留意したい事象である。いずれにせよ,単純な胸飾が多様に変化する契機となる表現が,隋代の菩薩像に認められる。つまり隋代には,前代にはない新たな表現が出現するのである。次に留意したい表現は,腰帯である。菩薩像の拮を留めるために帯をまいて結び,-148-
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