鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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13),それが成立した理由について議論されたことはなかった。その先を垂らすという例は北魏時代から見られるが,雲門山石窟の菩薩像の腰帯ほど幅が広いものではなかった。これに似た作例は,馳山石窟の菩薩像,諸城県出土の菩薩像龍興寺跡出土の菩薩像セントルイス博物館の菩薩像などで見られる。このように時代は隋代に,地域は山東に集中している。この幅の広い腰帯を中国で他に求めてもなく,西方に目を転じると北インドのスワートで出土した3-4世紀の女神像〔図9〕にこうした腰帯が見られる。インドではこの類いの作例が早くから存在しており,それが中国に伝わったのであろう。また第2窟の菩薩像の腰帯表面には,人物像や楕円形の花文などが刻まれており,他の地域では確認できない特異な表現である。これについて久野健氏と北進ー氏がインド的な要素があると指摘しているが(注ここで,この腰帯表面のモティーフについて考察しておきたい。その中でも,蓮華座に乗る二人の人物がお互いに頭部を合わせて腕を絡めるという表現は注意を引く〔図10〕。二人の人物が抱き合うことから男女像と思われるが,この起源を中国に求めることは困難であり,外来からの影響を考えなければならない。インドにおいて,単に並んでいる男女像を表現する例は,紀元前2世紀のバールフトの欄楯彫刻に見られるなど古くから一般的に認められるモティーフである。その後,アジャンタ石窟などでは嬉遊する男女の像が描かれるようになる。しかし,儒教的な保守精神の中国において,この表現が容易になじむものではない。腰帯表面に男女の像を表したのは,単にインドの影響を受け容れたためだけではなく,その上さらに理由があったと考えるべきであろう。ここで顧みるべきことは,この腰帯を表した失しているため,尊名を批定できる指標か見いだせない。それゆえ,その推論の手立てとして対峙する陀山石窟の同時期の第2• 3窟を見ると,左脇侍菩薩像には宝冠に化仏が表されていることから観音菩薩像であると解釈されている。雲門山石窟第1窟の本尊は,窟内に残されている銘文から阿弥陀仏である可能性が高い。そして第2窟も同様の形式で造られていることから本尊が阿弥陀仏であることが推測される。このように考えると,第2窟の両脇侍のうち片方が観音菩薩像であると推論される。ここで『法華経・観世音菩薩普門品』の一節をひくと「若し衆生有りて,淫欲多からんに,常に念じて観音菩薩を恭尊せば,便ち欲を離るることを得ん」とあり(注14),観音菩薩と色欲つまり嬉遊する人間との関わりを示す内容となっている。また,当時第2窟の左脇侍菩薩像の尊名が何かということである。本像は頭部の一部と両腕を欠-149-

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