の青州の状況を知る上で興味深い記事が『続高僧伝』巻2達摩笈多の条に見られる。それによると「開皇三年……また自撲法を行い以て罪を滅すると為す。而して男女合い雑じりて妄に密行を承す。青州居士,響に接し同行す。宮司検察,是を妖異と謂ふ」とあり(注15),雲門山石窟内に残る銘文と同時期に青州で自撲法というかたちで罪を償う人々がおり,男女が乱れるということまで発生していたことが分かる。青州のこうした状況と観音経の記載を考慮すると,雲門山石窟第2窟の菩薩像の淳名も推測され,男女の像を意識して腰帯に表した理由も納得がゆく。つまり,第2窟の菩薩像は観音菩薩像であり,自撲法の流行による男女の乱れを観音が救ってくれることを願って,腰帯にこのモティーフを表したと推察されるのである。この人物像は,隋代の山東地域の宗教観を端的に表しているといえよう。また,この他に腰帯を表した菩薩像は,諸城県出土の菩薩像〔図11ぶ1996年10月に青州の龍興寺跡で出土した菩薩像〔図12〕などがあげられる。同じ龍興寺跡から出土した北斉の菩薩像には腰帯が見られないことから,陪代にこの表現が伝来したのは確かであろう。さらにこの表現の伝来経路を推測する手段として,南朝領域内の成都万仏寺跡で出土した像に,これと似た表現が存在することを指摘しておきたい。それは,梁・大同三年(537)銘の如米形立像である(注16)。本像は,胸前から二本の結び紐を垂らすが(注17),通常の結び紐より幅が広く,その表面に文様をほどこしている。これは,雲門山石窟の菩薩像の腰帯と酷似している。山名伸生氏が指摘するように成都は,国際的に繁栄し独自性をもった地域であった(注18)。これは,報告者が考える山東と同じ特徴をもつ地域ということになる。つまり成都が陸路で西方の影響を受け容れていたとすれば,山東は海路で西方の影響を受け容れていた地域と考えられるのである(注19)。無論,山東にも陸路からの影響が少なからずあったはずであるが,腰帯のみ見ればこの推論も成り立つであろう。すなわち,インドから伝来したと考えられる結び紐や腰帯に文様をほどこすという表現法が成都と山東で表される際,一方では内衣を結ぶ紐に片方では腰帯にそれぞれ影響することになったのである。これは,伝米経路が相違することを示唆するのであって,山東地域に海路で西方の様式が伝わったことを傍証する現象といえよう。以前,松原三郎氏が雲門山石窟について言及された際,山東彫刻は地方性の濃い統ーから取り残された様式と述べられ,その源流について「南朝の影聾とみるべきか」-150-
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