あるいは「南北交流がかえって独自の地方性を生むに至ったのか」と解説されたが(注20),報告者は西方からの直接的な影響もあったと付言しておきたい。それは先述の表現からも理解され,さらに青州の龍興寺跡から出土した像の中にグプタ系の仏像が含まれていることからも自然な解釈であろう(注21)。まとめ本報告では細身の長身性,胸飾,腰帯という表現にしぼり考察したが,この三点だけ通して見ても隋代の山東地域における菩薩像には前代にはない新たな特徴が多いことか確認できた。つまり,衣裾が広がらない細身の長身性の像を造り出すことにより,北魏以来これまで受け継がれてきたゆるやかな八字形の長身性を脱却させた。また,従来の胸飾にW字形の飾りをつけることにより装飾性を高め,これが唐へと引き継がれ胸飾の多様な展開を可能にさせたのである。そして,従来の中国にはなかった幅の広い腰帯は,山東地域に直接西方の影響が伝来したことを証明している。はじめに述べたように,山東地域は古くから海路で中国に来朝する際の上陸地点であったということを考慮すれば必然的に起こり得る現象である。ただし,現状では実証する作例がなく明解することはできないが,西方の影響が山東に伝播する経路として本報告で指摘したルート以外にも,史実からみて南朝経由,東南アジア経山等も充分考慮する必要があることはいうまでもない。これらいくつかの伝播経路が存在した山東地域における造像は,中国彫刻史の転機を生み出したと考えられるのである。以前,関野貞氏は南北朝期には二派の様式が存在すると指摘している(注22)。関野氏のいう二派とは,①北魏式の中心をなす派(飛鳥時代に影響する派)と②隋以前にも存在したが隋になって大きく発展した派(奈良時代に影響する派)である。本報告で述べたのは,まさにこの二つめの派に該当することになるが,修正しなければならないことは,大きく発展したのではなく前代にはない新たな様式を生み出した派ということである。また,関野氏は一つめの派は隋代で終焉を迎えたとするが,例えば本報告で考察した細身で長身性の菩薩像が存在する一方,同じ隋代にいわゆる童子形の菩薩像も存在するのであるから,二つの派は陥代以降も共存していたと考えるほうか妥当であろう。最後に今回は多く述べることかなかった舵山石窟について触れておくと,対峙する―-151 -
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