鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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(9) 閻文儒「雲門山与陀山」(『文物参孜資料』1957年第10期)(10) 久野健『仏像のきた道ーガンダーラから慶州まで』(日本放送出版協会1985年)(12) 山岸公基「法隆寺伝百済観音像考」(『インド美術仏教美術研究会く活動報告〉』(13) 前掲(注10)参照(15) 『大正蔵』5435頁C-436頁a(16) 『成都万仏寺石刻芸術』図10(中国古典芸術出版社1958年)(17) 吉村怜「龍門様式南朝起源論―町田甲ー氏の批判に答えて一」(『国華』11211989年)吉村氏は,本像が垂らすような結び紐を紳帯と提唱された。(18) 山名伸生「吐谷渾と成都の仏像」(『仏教芸術』2181995年)(19) 夏名采「益都北斉石室墓線刻画像」(『文物』1985年第10期)この墓室の画像石に(20)松原三郎「諸城派石彫考ー南北朝様式上の位置に就いて一」(『古美術』1031992年)(21) 山東省青州博物館「青州龍興寺仏教造像容蔵清理簡報」図12(『文物』1998年第(22) 関野貞「山東省に於ける南北朝及び隋唐の彫刻(三)」(『国華』3131916年)北進一「山東省仏蹟調査概報その3ー特に石窟造像における独自性,西方性と東方への影響について」(『象徴図像研究』IX1995年)(11) 岡田健「北斉様式の成立とその特質」(『仏教芸術』1591985年)岡田氏によると,成都万仏寺跡出土の中にも斜めに櫻塔を懸ける例があることを指摘されているが,報告者が本文で後述するように,山東と成都の地域的な性格上これらの地域で同様の表現か確認されることは注目される。名大文学部美学美術史研究室1993年)山岸氏は,百済観音について経典の解釈により長身性が強調されたと指摘され,雲門山や馳山にその源流があると示唆されている。(14) 『大正蔵』957頁aは,西域人や酪馳などが刻まれており,山東地域には北斉時代すでに西方との関係があったことを示している。2期)-153-

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