鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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2.「1パーセント政策」の変遷:建築から都市へ20世紀フランスの公的発注の起源は1936年の人民戦線政府による1パーセント政策2-1.「1パーセント法」の創設から1960年代までフランスの公的発注に占める位置を知る手がかりとしたい(注1)。の提案に潮るといわれるが,法制化されたのは1951年のことである。幾たびか改変されてきたこの政策の方向性は次のような指摘に要約されよう。「40年の間に,限定的,専門的,中央集権的な手続きによって芸術と建築の結合を目指す方向から,拡大化,一般化,地方分権化されたやり方で芸術作品を公共空間に統合することを目指す方向へと変化してきた(注2)。」単独の学校建築に密着した装飾芸術から出発した1パーセント政策をいかに柔軟に運用し,適用範囲を広げて行くかが一貫した課題だったわけである。今世紀に入って国の大規模建設事業においてモニュメンタルな装飾に特別の予算を割り当てるという考えが生まれたのは,芸術家が失業の深刻な影響を受けていた1936年のことだった。この年二つの政府法案が提出されたが,実現には至らなかった。このうち人民戦線の公教育相JeanZayの提案は,教育施設の建設予算の1.50%を用いて失業中の芸術家に装飾作品の制作を委託しようとするものだった。アメリカにおいて芸術家雇用対策を兼ねたニューディール・アートの諸計画が打ち出されたのと同時期のことである。「アートと建築の関係づけへの新しい関心は,構成主義やバウハウスなどの前衛集団やル・コルビュジエのような人物の個人的な姿勢を通じてすでに表明されていたものだか,この関心は人民戦線の広範囲な社会的ユートピアと相通じるものがあった(注3)」といわれるように,杜会的,経済的動機はフランスにおいても無視できない要因であったというべきだろう。この二つの計画案が実を結ぶには結局,1951年の通称「lパーセント法」成立を待たねばならなかったのだが,それより早く,第二次世界大戦終結直後から前ぶれは復活していた。1947年,文部省が中心となって,「政府による新規の建造物のすべてについて,建設費用の最低1%を絵画や彫刻による装飾作品のために強制的に割り当て,すべての作品が建物とその周囲の美的な利益を高めること(注4)」をめざして法制化がもくろまれた。このときには,芸術家の救済という目的のほかに,現代芸術作品によって国家の芸術的遺産を豊かにするという目的もつけ加わっていた。公共建築物-158-

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