鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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く1%〉)の基礎が築かれたのである。それは,学校施設の建築計画は付随する装飾作には総予算の1%を,住宅用建造物には0.5%を当てる。橋やダムを建造する場合も5000分の1(0. 02%)を装飾作品のために用意する,という案であった。この措置は,すべての省の財政に関わる問題であったので,結局,下院まで届かずじまいに終わったといわれる(注5)。その後この案は,1949年,時の文部相YvonDelbosが署名した省令において息を吹き返した。学校建築に建設予算の1%を限度として装飾事業を導入することを決定したのである。1950年,大蔵省はこの条文の適法性に関して異議を申し立て,廃止を要請したが,結局はこの法制化の意義を考慮して反対を取り下げ,文部相のPierre-Olivier Lapieが法令の内容に手直しを加えた後,1951年5月18日付け省令に署名した。このときをもって,通称「1パーセント政策」(フランスでの呼称は簡潔に品を含んでいなければならず,これに割り当てられる文部省の施設用経費の予算は,国の単独予算で建設される場合は建設費用の最大1%,施設が地方自治体主導で計画される場合は国からの補助金部分の1%とする,というものであった。この1パーセント政策の目的は,(1)美術を建築と緊密に結び付け,忘れられた伝統を回復する,(2)若い時期から現代美術にふれる機会をつくる,(3)芸術家をその創作を通じて経済的に援助する,の三つであった。これに加えて,1965年,4つめの目標が付け加わる。1パーセント予算の完全消化である。当時,「1パーセント予算のかなりの部分が清掃用品などに流用されてしまっていた」という背景があったのだという(注6)。またこの年には,文化省が州別に芸術計画への助言のための芸術顧問(Con-seiller artistique)を創設。一定限度額までの計画の検討を地方に委譲することになった。この間,1パーセント政策の予算額は,1965年に900万フラン以上,1966年に1000万フラン以上,1970年に1200万フラン以上と増加した。しかし,「豊富な予算の恵を受けてはいたものの,一方では建築そのものがかなり貧しく,また建築家が1パーセントの要求を満たすために提示してくる作品もまた貧しいものが多かった」。「こうした芸術表現への文部省をはじめとする公的な権力機関の受けとめ方もまた同様であった(注7)」。60年代に顕在化した諸問題を改革するため,文化相アンドレ・マルローは1969年,芸術作品の質を維持するため1パーセント政策改善を検討する臨時委員会を設置した。-159-

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