は,金で作った薔薇の細工で通常多くの貴石で装飾されていた。中世以来教皇は君主や傑出した人物,貴顕などに対する敬意のしるしとしてこれを与える習慣があった。よって多くの史料の証言するようにとりわけ信仰深かったボルソにとり,教皇から教会への功績を讃えられた上での金の薔薇の拝受は極めて名誉あることと思われたであろう。加えて,フェッラーラ公爵位の授与式,サン・ピエトロの騎士としての叙任式に引き続き一連の栄誉ある式典のクライマックスたる金の薔薇の教皇からの拝受式の場面をスキファノイアの場面選定において選んだことは至極当然と言えよう。さて書簡の中で言及される,金の薔薇の再授与の儀式の執り行われた「サン・ピエトロ聖堂の扉の上soprala porta di S. Pietro」という場所であるが,おそらくピウ側に建設した「祝福の開廊loggiadella benedizione」の第二層部分を指すと考えられる〔図7〕。他ならぬフランチェスコ・アリオスト・ペレグリーノが,この時教皇が「祝福の開廊」に上った様子について述べている。彼によればそこには教皇の玉座が設置されており,スキファノイアにも描かれているようにそれはタピスリーで囲まれていた。ただしそういうことになると,スキファノイアの壁画のそれは,実際の開廊をそのまま写したものではなく,当然「サン・ロレンツォのフリーズ」も「祝福の開廊」に嵌められていたわけではない。しかし筆者は,スキファノイアに金の薔薇の授与の儀式の様子を描くことになった際,祝福の開廊そのものを正確に再現するのではなくローマで目にした印象的な古代遺物をそこに描き込むことによって,それがローマでの出来事であることを明示させたと考える。既に述べたように「サン・ロレンツォのフリーズ」はルネサンス期,それが古代ローマ人が用いたヒエログリフであると信じられたが故にしばしば模写された。よって『フェッラーラ日記』の述べるようにこのボルソの旅行に際して500人以上ものエステ宮廷の人々が大挙してローマを訪れたことを勘案すれば,その中に宮廷人文主義者たちが含まれていた可能性は十分にあり,当時人文主義者たちの関心を惹いた古代遺物に恵まれたサン・ロレンツォ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂を宮廷人文主義者が訪れ,当フリーズを模写したと考えてもおかしくはない。そしてその上で,金の薔薇の授与式を壁画に組み込むに当たり,ボルソのローマ旅行を雄弁に証言しうる「サン・ロレンツォのフリーズ」をそこに引用させたと考えられるのである。ス2世の命によりフランチェスコ・デル・ボルゴがサン・ピエトロの正面向かって右-7 -
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