鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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しては目安になりにくいと考えておくべきだろう。京都で禁裏の御用絵師となっているのは土佐派と狩野派である。前期三版の時代まではほぼこの両派に独占されていたと言ってよい。具体的には土佐家が光起の代より絵所預となり以後幕末までこれを世襲する。狩野派では江戸の狩野探幽の弟子鶴沢探山が東山天皇の命を受けて上洛し,御用絵師に名を連ねた。三代探索の時代には土佐家と並ぶ家格を誇った。また,江戸狩野とは別に始祖山楽以来京都に根を張った京狩野家もそれに続いている。これらの家系から分かれて一家をなしたものもある。鶴沢派から出た勝山派などがそれに当たる。ところでこれらの御用絵師は前期三版には全く姿を見せていない。それは彼らの存在が世に知られていなかったということではない。『京羽二重大全』(天明四年版)には彼らは「御絵所」および「画師」として別にまとめられているのである。つまり,『平安人物志』では,御用絵師という身分のある画家は別格と考え,ここに載せることを憚ったのであろう。禁裏に関する画事御用で最も大がかりなものは御所の障壁画である。この仕事は宝永度の造営までは江戸狩野を中心として行われていたが,天明の大火の後に行われた寛政度の造営では,土佐・鶴沢両家を中心に進められた。その際,円山応挙を始めとする京都の民間画工も大量に採用されている。これは歴史上画期的な事件であり,これ以後御用絵師と民間画工の垣根はかなり低くなったのである。また寛政年間からは皆川澳園の呼びかけに始まるといわれる「東山春秋書画展観」も行われるようになった。これもやはり御用絵師と民間画工がともに出品する展覧会であった。18世紀末からは京都の様々な画家による寄合書の軸や寄合画帖が多く作られるようになった。その中心は円山四条派であったが,土佐・鶴沢両家や文人画家がそこに加わることも普通に行われるようになった。民間画工の勢力伸長と,御用絵師の大衆化のどちらが卵でどちらが鶏なのかはにわかに決しがたいが,両者の動きがかみ合うことにより,寛政から文化年間にかけて,一体化した京都画壇と呼ぶべきものが確立するのである。『平安人物志』が文化十年版から御用絵師を民間画エと一緒に記すようになったことは,まさに上記のごとき画壇の変革を体現しているものといえる。『平安人物志』上では常にトップに登場し,安泰のように見える御用絵師たちであるが,実際の遺作の上ではどうか。実は寛政度の造営に参加した土佐光貞・光字,鶴(3)御用絵師-168-

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