化八年,始祖呉春を失うが,松村景文•岡本豊彦らを中心に多くの弟子を擁した。岸沢探索らの作品は数的にも決して少なくないのだが,それ以後の画家一土佐光清・光文,鶴沢探泉・探春・探龍などーになると,見かけ上の地位に反して遺作は少ない。寛政度の造営という大きな改革のあと,役割が固定化し,先例踏襲で事が済むようになった結果であろうか。なお,長く二番手に甘んじてきた京狩野は,幕末に出た永岳の活躍が目を引く。順位こそ鶴沢家に一歩譲るが,遺作の多さとその質の高さで圧倒している。前期三版では円山応挙が順位2位→1位→1位と推移している事からわかるように,彼らこそ『平安人物志』の主役であった。ただこの時点では,応挙の一門というような認識はあったと思われるが,今H言うところの流派というところまでは確立されていなかったようである。先にも引いた天明二年版『京羽二重大全』では,応挙は長崎派の大友月湖や文人画風の作品を遺している島士通らとともに「唐絵師」の項にまとめられている。つまり,直接の師系では狩野派につながる応挙だが,その画風は新しい外来様式の一つと受け取られていたようだ。『平安人物志』前期三版ではまだ流派をはっきり区画するほど画家の数も多くなく,当時声望の高かった民間の画家を集めたらこうなったと見るべきであろう。文化十年版では収録画家が激増し,応挙の弟子たちも数多く登場している。流派としてはおそらく文化年間が円山派のピークで,以後はめぼしい画家があまり生まれていない。それと同時に四条派,岸派,原派らの活躍が目立つようになる。四条派は文派は初代岸駒,二代岸岱がともに長寿を保ったため,京都画壇への影響力は次第に大きくなっていく。後期六版のうち,天保九年版を除くと,岸派の画家が民間画工では第1位となっている。優れた弟子を次々娘婿に迎え,一族の繁栄に力を入れたのも岸派の特徴である。円山派の本家が次第に尻すぼみになっていったのとは好対照である。原派は四条派や岸派ほど流派の拡大は見せていないが,禁裏関係の良質の顧客を確保したと思われ,京都の門跡寺院などにその遺作を多く見る。これら広義の円山四条派の作品は,今回の調査でも数多く見いだされている。京都およびその周辺の旧家では,特にこの一派の作品が多く収蔵されている。文人画家の多くは長期の旅や遊学を行っているので,京都生まれではない画家も少(4) 円山四条派(5) 文人画-169-
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