鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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(6) 浮世絵なからず登場している。初期の版において大雅(4位→3位→没),蕪村(5位→4位→3位)が非常に高い順位を得ていることからわかるように,文人画への評価は早くから高かったことがわかる。彼らは写生画の応挙らと同列に論じられていたのである。しかし文化十年版より別枠となる。今日の目には区別せずに扱われた前掬圧速反の方が合理的に映る。現在残る目録類から見ても,書画展の場では多くの場合X人画家も一緒に参加していたことは明かである。いやむしろ書画会ということ自体文人趣味から生じたものと言えるかもしれない。では『平安人物志』がこのような体裁を取ったのはなぜか。ここに二つの理由が考えられる。一つ目は,文化十年版に人物志全体の構成に大きな変化があったためである。これまでの全一巻から全三巻に増えている。その際,学者や書家,詩歌を内容から大きく「漢」と「和」に分け,上巻を「漢」,中巻を「和」となるように構成しているのである。文人画が別扱いとなったのは,直接的にはこのような全体構成の変化に対応するものだったと思われる。ただその際,漢画と言われる狩野派も和の方に分類されており,また,応挙もかつては唐絵と言われたことを考えると,画家の分割はそれほど簡単な問題ではない。しかも文政五年版以後文人画は「画」の後ろに付け足しのように入れられるようになった。巻の構成だけの問題であれば,この区別は解消されても良さそうである。やはりここで考えなければならないもう一つの理由は,「御用」とにまつわる問題であろう。円山四条派は寛政度の御所造営に際し,障壁画制作の御用を賜わっている。禁裏の需めに応じることのできる画エと,そのような職制から離れたところで絵を描く文人画家の間には,公的な立場という点で大きな乖離が生まれたのである。文人画をめぐるもう一つの問題は,大量に掲載されている画僧の位置付けである。例えば文化十年版では,中林竹洞や浦上玉堂・春琴親子のようなおなじみの文人画家の他に「釈00」と呼ばれる僧が九名も続く。中には維明や玉憐のように,作品の知られる画家もいるが,多くはほとんど名前も知られていないものである。これらは玉済の墨竹のように,ー芸を以て知られた画僧なのであろう。しかし比率的に他とバランスを欠くほど多いように思われる。第一に彼らがそれほど著名であったのか,という疑問があり,その上で,彼らを文人画と呼ぶ根拠を問わねばならない。今回の調査では,予想通りそれらの画家の作品はあまり発見できず,謎はさらに深まった。最後に,『平安人物志』があまり重視しなかったジャンルについても述べておこう。-170 -

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