鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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それは浮世絵である。京都では江戸に比べてあまり大きな発達を見せていないので,扱いが小さいのも無理からぬ事である。文政五年版では西村中和と速水春暁・春民親子がひとまとめにされている。「浮世絵」とはっきり項目を立ててはいないが,この部分は明らかに浮世絵師という扱いでまとめたものと見られる。しかしそれ以後の版では同様の項目は見られない。京都の浮世絵の難しいところは,浮世絵師と円山四条派などの一般の画家との境が曖昧なところである。西村中和や速水春暁斎らの仕事はおもに板本の挿絵であるが,この分野では円山四条派も活躍しているのである。総合カを判定すれば,板本のみの画家はやはり一段下がるものとして,あまり取り上げられなくなったのであろう。また,近年再評価が進んでいる肉筆浮世絵についても,『平安人物志』は沈黙を保っている。最初の版がもう少し早ければ,1750年に没した西川祐信が入って,以後の展開も変わったかもしれない。しかし祐信没後急速に力を失っていく西川流では,応挙や若i中,大雅,蕪村らがひしめく明和五年版にはとても入れられなかったであろう。後期六版は収録画家数が多いので,享和〜文政に活躍した祇園井特や天保頃に活躍した三畠上龍やその弟子吉原真竜などが採られても不思議ではないが,全く無視されている。遺作の多さから見て,少なからぬ愛好者が存在したことがうかがわれ,事実『皇都書画人名録』では吉原真龍が「故上龍先生門人」として紹介されている。このあたりにも『平安人物志』の特徴を窺うことができるだろう。ここまで『平安人物志』を通して京都画壇を概観してきた。終わりに『平安人物志』が表す京都画壇像というものを考えてみたい。まず前期三版と後期六版では,細部に至るまで非常に大きな違いがあることが明らかになった。初めはまだ流派という概念も定まらないまま,京都でめざましい活躍を始めた画家が集められた。その中には応挙や岸駒のように早くから禁裏の屏風新調の命を受けたものもあるが,甚本的に民間の画家たちである。ここまでの編集方針は実力主義といってよい。それが空白の寛政期を経て大きく様変わりする。御用絵師と民間画工の距離が縮まり,両者は一つのカテゴリーにまとめられるようになる。画家の採録は網羅的になり,円山家や岸家などは,土佐・狩野に次ぐ名家として扱われるようになる。円山四条派の御用絵師化である。実際に彼らは既得権を手にし,幕末の安3 『平安人物志』が表す京都画壇像-171 -

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