永二年十一月二日,筆を染め終えたと簡潔に述べる。くわえて,第三•四巻(下巻の⑰ 絵巻の旧本消散による新本再生研究者:帝塚山学院大学名誉教授吉田友之1 底本の消失東本願寺に伝わる「本願寺聖人伝絵」四巻は,康永二年(1343)に作られた善信房親壼(1173■1262)の伝記絵巻で,一般に康永本と呼ばれている(注1)。この春,京都国立博物館で催された『蓮如と本願寺』展に,西本願寺の琳阿本「善信聖人絵」二巻などと共に,当康永本も出陳されて衆目の的となった。ときに,その第四巻の奥書を細見できたのも有意義であった。康永本には四巻それぞれに奥書がある。その第一・ニ巻の奥書は,ともに康永二年の十月中旬に絵巻の絵画制作が終結したことを伝えている。なお,第二巻の奥書は,これをうけて,当時七十四歳の覚如上人宗昭(1270■1351)が当絵巻の詞章,即ち絵詞を自ら書写したことについて詳述し,さらに絵巻第一・ニ巻(上巻の本・末両巻)計八段の絵画を康楽寺沙弥円寂が担当したことを記している。‘康永本第三巻の奥書は,覚如がその絵詞染筆を十一月一日に終えたことのみをしるす。第四巻の奥書は,その翌日の執筆である。覚如はこの最終巻の奥書最末尾で,康本・末両巻)の画工を大法師宗舜と記す。かくて,絵巻は速やかに新調された。以上の各奥書に限定すれば,それらの記載は康永本「本願寺聖人伝絵」四巻のいわば制作実録であって,奥付けにも似た極めて簡潔な記述である。だが,最終第四巻の奥書には,康永本以前に成立していた旧本二種の跛文が先ずもって収載されている。これら二本の蚊文は,すでに覚如自身が執筆した先行本の奥書である。いま新調本の奥書にこれら旧本の跛文を覚如が自らの筆でもって転載したのであるから,いささか妙な現象で煩雑ではあるが,その意図を理解しておかねばならない。そこでは,最初に絵詞同様の大きな字体で絵巻原初本所載の識語を伝写し,それに付して永仁三年(1295)十月十二日に記された奥付けを転写している。「右縁起画図之志」で始まる当永仁三年本の践文には,絵巻制作の企てがひとえに祖師親鸞への知恩報徳の為であって,これが戯論狂言の類でないことを表明し,絵巻制作のための絵詞がもっぱら覚如自身によって撰述されたことを記すのである。これによって,親鸞伝絵制作の意図や意志を知る。なお,この跛文奥付けの覚如の自署「執筆法印宗昭」-173-
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