鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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に並列して,「画工法眼浄賀」と記し,「号康楽寺」と割り注を施す。これは,画工大法師宗舜の注記「康楽寺弟子」,画エ「康楽寺沙弥」円寂との関連で注意される。さらに,康永本第四巻奥書では,この永仁三年の跛文に注記するかのように,他本にあった覚如自箸奥書が覚如自身によって書写されている。それは,暦応二年(1339)の四月二十四日,覚如が「或る本を以って俄に書写し奉」った本である。しかも,覚如はいまこの一本を得て,「註留之者也」と記している。本跛文の収載から推して,康永本はその暦応二年に覚如が書写し,これに注記してできた一本を当絵巻の絵詞に用いたことが予想される。とはいえ,実際には,具体的な遺作による事実関係の吟味と例証を要することは言うまでもない。津市の専修寺に伝わる「善信聖人親懸伝絵」現状五巻は,通称高田本で知られる祖師絵巻で,かの永仁三年十月十二日に記された覚如の奥書がある。ところが,奥書の最後に改行して,「いま,同じ歳の十二月十三日に又これを書く」とあるのが目に留まる。その絵巻の奥書によると,当本は原初本の成立からニカ月を経て転写的態度で制作された類本である。この高田本は親翌の行状を全十三段に編成し,上巻六段,下巻七段の絵巻で,ほぼ原初的な構成を留めた遺例と見倣される。この高田本に比して,琳阿本はその上巻第七段に親餞の肖像を写す定禅夢想輝を有し,全十四段二巻に編成した増補本である。だがそれでも,巻尾に永仁三年の践文を載せる類本である。さらに,康永本は第一巻第四段に蓮位が夢に親壼を礼拝した聖徳太子を見るという説話を加えて,十五段四巻編成とした。この康永本の場合は,明らかに原初本を増補訂正して,新しい編成を試みたのである。ところで,高田本と琳阿本は共に覚如が絵詞と奥書を執筆した作品だが,それでも両本の間には制作環境や地域の落差といった諸条件が想定されるから,適切に永仁原初本との連関や懸隔などを見定めることはさほど容易くはない。他方,康永本第四巻の奥書に載せる暦応二年(1339)の践文で,「先年,愚,草して後,一本所持する処,世上闘乱の間,炎上の刻に焼失して,行方知れず」と,覚如は綴っている。覚如が所持していた詞一本を失うのは,建武三年(1336)十月の直後,足利腺氏の戦火によってであろう。遺憾なことではあるが,結果として,暦応本が誕生した。それは絵巻の新本ではなくて絵詞の増訂本とすべきであろう。しかも,その暦応本の跛文を康永本奥書にわぎわぎ収載しているのであるから,康永本の絵詞は当暦応本か,その系統本であろうと推察される。-174-

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