2 類本の在処ところで,祖師親鸞の曾孫覚如は自ら発願して親鸞伝絵の絵詞を撰述し,それを清書執筆し,絵師を選抜して作画を導き,僅かの期間で絵巻二巻を成立させた。そのような光景は観応二年(1351)作の覚如伝絵巻「慕帰絵」十巻の第五巻第二段に表わされている。がしかし,これまで永仁三年の底本を遂に見ることはなかった。それでも高田本や琳阿本,そして康永本などの後続類本は,その奥書で永仁原初本への敬意を表わし,その底本との緊張関係で生成したことを伝えるのであった。以後もそうした傾向は持続した。康永二年の四巻本成立直後の翌年に千葉大原の照願寺本が,貞和二年(1346)には弘願本が,そして延文五年(1360)には大阪定専坊現蔵本が作られたように,親鸞伝絵は継続的に伝写されていった。ことに十四世紀中期以降十五世紀末まで,それが絵巻を規範とした掛幅装に変じても,その画面構成になお創意をみせ,綿々として跡絶えることはなかった。しかし,底本はもはや見初め得ないし,原初的な旧本の存在自体が模糊としているのあって,唯々その類本に底本を窺い,或いは類本において透き見をねがう他はなかったのである。それ故,原初の旧本を新本制作でもって蘇生させる試行が継続されたように見受けられる。原初本や旧本がその底本的規範性を減退させたときも,回復手段が講じられて新本が産出される。いわばリニューアルな新本制作が,絵巻の類本化を促したようにもみえる。親鶯伝絵と同様に,正和三年(1314)の成立を伝える融通念仏縁起絵巻の場合も底本は窺い知れないが,それでいて類本が続々と産出された。しかし,この現象は特定の時期に祖師伝絵に共通して生起したのではない。法然伝絵は嘉禎三年(1237)の伝法絵二巻から始まり,ほぼ一世紀をへて四十八巻本へと大きく変貌し,かつ法然伝絵の主題領域が躊躇うことなく拡大された。弘法大師伝絵においても入念な系統的整理が必要であって,諸本の生成は単調でなく,しかも底本がみえない。特定主題の絵巻が幾本もくりかえし制作される。そうした類本制作において,その生成の手順が推測可能となるのは北野天神縁起絵巻においてであろうが(注2),類本の生成現象はすでに八世紀の過去現在因果経絵にみられるし,源氏物語絵巻も早くからそうであった。ことに後者の場合,『長秋記』の元永二年(1119)に記載された源氏絵と,『源氏秘義抄』付載の仮名陳状にいう源氏絵二十巻とか,現存の徳川・五島両美術館本源氏物語絵との連関において注目されてきた。だが,それら相互の繋がり-175 -
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