はなお明確ではない。その一世紀後,『明月記』貞永二年(1233)に源氏絵十巻の制作が記録されており,ここでもまた上記諸本との連鎖関係が詮索される。時代はさらに下って,『看聞日記』によると,永享七年(1435)五月に大納言二条持通は転写本作成のために伏見宮貞成親王所持の源氏絵上下巻をかりている。さらに,この二巻本は同九年から後花園帝がその転写を始め,父の親王も加わり,その制作の経過が詳記される。しかし,その原本または正本,あるいは転写新本にとっての範例的底本に関して,何故だろうか,所持者が自らの日記に美術的言及を書き留めることはなかった(注3)。同様に,俵屋宗達と俵屋の絵師がその転写的制作に携わった西行物語絵巻の場合も共通した事情に当惑するのである。なるほど毛利家旧蔵本の奥書では禁裏本を模写したと述べてはいるが,いまなお禁裏本は一種仮想本でしかなく,作画活動の範例としての旧本の素顔がみえない。このことは,当然,宗達と宗達派の筆になる西行物語絵諸本を理解するのに障害となる。他方,旧本の充実した存在による重圧からの開放を願って,新本を作成した場合もある。東大寺の天文五年(1536)に作られた大仏縁起絵三巻は,I日本が量的に享受の重荷となり,それを避けようとした遺例である。その下巻の奥書に「東大寺の縁起絵詞の旧本二十巻はあまりに煩雑で,見る者は拒み,聞く者は倦んだ。それ故,要約して三巻に縮めた」と,勧進沙門祐全が記している。縁起は縮小・要約され,東大寺大仏が主題となった一種の類本が作られた。南都絵所の芝法眼琳賢が主宰して絵画を描いた。眼に強く訴える絵画が需められたのであろうか,特色ある作品がうまれた。こうした絵巻の旧本と新本との関係,そこで注目されるのはやはり羽曳野市の誉田八幡宮に伝わる誉田宗廟縁起絵三巻であろう。これは由緒正しい絹本の絵巻で,永享五年(1433)四月に,将軍足利義教が新写した八幡縁起の神功皇后縁起絵二巻とともに当社に奉納した。その下巻奥書に,義教が先年誉田社に参詣した際,当社の縁起絵三巻を拝見したことを語る。それに続けて,しかしその旧本は縁起内容が疎略で,絵画も満足すべき作ではない。したがって,旧本を拾遺し,更に新写の功の致すことを述べるのである。旧本の疎略であることもまた重圧となった。ここでは,I日本が貧弱なので将来の規範となりえないとする考えが,新本更新を促したのである。この絵巻は誉田社の縁起絵であるだけに,類本は稀れである。しかし,この奥書に述べているように,たしかに先行する旧本の断簡が伝存している(注4)。勿論,その断簡の伝来は不明であるが,紙本着彩で,その料紙の天地幅は三十三センチの標準的なイ乍である。-176-
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