鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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誉田宗廟縁起絵のように旧本から新本へと絵巻の更新がなされる場合,この時期に旧本の品質が問われ,すでに評定がなされていたことなどが留意される。『訂正増補考古画譜』に,日光山別所寂光寺の釘抜念仏縁起絵一巻の奥書が載る。その奥書の第ーは文明十三年(1481)六月に弟子沙門某によって書かれた識語であるという。その第二は元禄五年(1692)四月に書かれた跛文であるが,そこに「旧本の書画好しからず,いま改製して寄付し畢ぬ」と記されている。近世に入ると,こうした品評は当然のようになされたようである。現存の十念寺縁起絵巻は,元禄十五年(1702)に記された下巻の奥書に,この絵巻の絵画は土佐光信の筆であるが,絵詞の手跡は凡筆であると十念寺住持の明空上人が嵯嘆したことを伝えている。勿論,近衛家煕以下当代の貴紳たちの筆跡でもって絵詞を書き改めるのであるが,凡筆なりとする評価によって新本化したのである。このことは,絵詞同様に,絵画の側でも生起していたであろうし,絵巻制作の早い段階から改作修正が行なわれていたに違いない。絵巻の制作に絶えず旧本の介在を憶うというのではないが,作成者が旧本との関わりを念ったであろうことを予想する。絵巻が新調されるとき,先行する範例本の欠如は制作者をやはり困惑させたらしい。数多くの絵巻制作を主導し,絵詞の作成にも清書執筆にも精通していた晩年の三条西実隆ですら,桑実寺縁起絵巻の絵詞新作の依頼をうけて,その「正鉢」無きことを頗る難儀なことというのである(注5)。絵巻の絵画創案も同様であったに相違ない。桑実寺縁起絵の開巻勢頭画面を支配するのは巨大な樹木であって,特異な表現である。説話絵画の変質がそこにみえる。狩野探幽が描いた東照杜縁起絵五巻も新作絵巻で,天海撰述の仮名縁起を得て作られ,寛永十七年(1640)に奉納された。かつて,絵巻の絵画制作に挑んだ探幽の姿勢を追求した畑麗女史は,そこで先行絵巻九種から借用した各画面を指摘した(注6)。その第一巻の開巻冒頭画面がすでに清涼寺本融通念仏縁起絵上巻第一段の容赦なき転用である。新本の絵画は旧本図様の収集から始まったようだ。近世の入口で矯激的な表現を執拗に用いて出現したいわゆる又兵衛風絵巻群,その山中常盤物語絵十二巻においても次々と古様な図様に出会う。その第三巻第一段の瀬田唐橋を,石山寺縁起絵第五巻第三段からの図様引用とみるのは私だけであろうか。こうした近世の前と後が容易く接続しあう類本的な絵巻の絵画が,われらの時代の絵巻享受に,さらにはその研究領域に連続した状態で容易く透過するだろう。しかし,そこで絵巻の絵画が図様のファクシミリと化すのを恐れるのである。_ 177-

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