鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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3 新本の再生旧本から新本への更新的な制作で軽視できないのが,天神縁起絵のいわゆる光信本である(注7)。この本は文亀三年(1503)に制作を終えた。その経緯は三条西実隆の日記『実隆公記』に詳記されている。当時,実隆はその新調本の跛文をつくり,「所謂旧本紛失」の間,土佐光信に「後素之新様」を施させたことを記す。絵巻のI日本が失われた記録は多い。この場合も散逸でなくて紛失をいう。だが,それが何れの本かは不詳。ときに画家光信は新調本の絵画に新様を施したとある。事実,当本は単なる転写本でない。絵詞は三巻四十一段の光増本系,絵画は弘安本系図様を主軸とし,画面構成に新様を試みた。描写対象の観面変更,構図の反転,些か粗荒な筆致などが目に留まる。だが,この時期に天神縁起絵がなお絵画の新様を需め,それを実現しようとしたことが知られる。この光信本は,近世に入って,土佐光起(1617■91)か描いた天神縁起絵のいわゆる光起本によってその絵画が評価される。須賀実穂氏の精緻な考察によると(注8),光起本はその絵詞に光信本と同系の本を用いたが,その絵画は旧本を選別し,規範として弘安本系図様を意図的に用いたという。そこでは,各類本の屈折度が量られ,光信本に得意の反転した画面構成なども否定され,底本的規範へ回帰・収敵しようとする趨向がうかがえる。この天神縁起絵の光起本と時期的に相接して,土佐光起は大寺縁起絵巻三巻(堺市開口神杜蔵)を描いた。その入念な下絵ものこり,制作にかなりの期間を要したであろうが,絵巻は光起が七十五歳で没する一年前の元禄三年(1690)十月に完成した。いま,菅原長量の奥書によると,往昔伝来の縁起は天正年中災に遇って失ったが,寺僧は再成を願ったので,「幸いにも類簡有るを以て継絶の志を発するところ也」と記されている(注9)。伝来の縁起を失うが,類本で以て再興したのである。やがて関白近衛基熙が施主となり,絵巻制作に光起が参画した。上巻五段,中巻十二段,下巻七段の絵画が描かれた。それらの多くは右から左へ展開する絵巻に適う画面構成である。ところで,その中巻の段数が甚だ多いのは,その第一段から九段にいたる説話が行基伝であって,そのままここに挿入したからである。なるほど,説話の基幹部とその絵画は確かに「類簡」に依拠したのである。この場合,類簡は行基伝の絵巻なのだろう。たとえば,中巻第九段第ー場面に浜で魚を食し,それを生魚に戻して海に放つ行基の奇跡を載せるが,寿命寺縁起絵のような行基伝絵の類本にも類似した画面がみえる。類本が新本の編成を混乱させたのである。-178-

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