⑱ 「移行期」のローマ画壇とカラヴァッジオ研究者:神戸大学文学部助教授宮下規久朗はじめに16世紀初頭の美術界に最も大きな影署を与え,マニエリスム様式からバロック様式への転換を促したカラヴァッジオ(1571-1610)が,その革新的な画風の基礎を形成したのは,彼の生地ミラノを中心とするロンバルディア地方であった(注1)。16世紀後半のロンバルディアの各地は,フィレンツェやローマの洗練されたマニエリスムと異なり,ヴェネチア派の影響を受けつつカラヴァッジオ前派とも称すべき独特の写実主義を育んでいた。こうした素朴な写実主義を,ミケランジェロとラファエロに代表されるローマの盛期ルネサンスの古典主義と融合させた点にこそ,バロック様式の先駆者としてのカラヴァッジオの意義があったというのは,すでに美術史的な常識となっている。しかしながら,衰微した後期マニエリスムを,写実主義と古典主義の融合による清新な新様式が払拭したというフリードレンダー以来の図式は,やや単純にすぎるきらいがあり(注2)'当時のローマ画壇に起こりつつあった微妙な変化や,カラヴァッジオの作品に示されている同時代の作品からの強い影響を考慮にいれるとき,ある程度の修正を余儀なくされるであろう。カラヴァッジオの「改革」は,当時の美術界との関係でとらえることによってその意義が十全に明らかにされると考えられるのである。カラヴァッジオとともに新様式の担い手となったアンニーバレ・カラッチは,ボローニャですでに大規模なフレスコの仕事をこなしており,1595年にローマにやってきたときには画風がほぼ確立していたのに対し,カラヴァッジオは,21歳でローマに来た1592年から,サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂の「聖マタイ伝」連作を公にする1599年までの期間に,比較的自由に様々な画風を吸収しながら自己の画風を形成したと思われる。1563年に終了したトレント公会議において制定された「聖像に関する教令」によって,16世紀末のローマ美術は,反宗教改革の精神を反映した厳格で教義的な性格を強めた(注3)。公的な注文に示される画壇の大勢は,後期マニエリスムのズッカリ兄弟や折衷派のカヴァリエール・ダルピーノやクリストファノ・ロンカッリ(ポマランチョ)を中心として,リズミカルなデザインを備えたパッシニャーノやチャンペッリ-181-
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