鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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といったフィレンツェのマニエリスト,コレッジオ的な叙情性と豊富な色彩を示すウルビーノのバロッチ,厳格な様式を堅持しながらもヴェネチア派的な色彩と風景表現をローマにもたらしたムツィアーノら多彩な画家たちが競合していた(注4)。しかし,彼ら「移行期」の画家たちとカラヴァッジオとの関係については,はとんど明らかになっていない。カラヴァッジオは1603年の有名な「バリオーネ裁判」において,彼の認める優れた画家(buonipittori)として,ダルピーノ,フェデリーコ・ズッカリ,ロンカッリ,アンニーバレの4名(直後の独白でアントニオ・テンペスタを付け加えているが)を挙げ,それ以外は有能な人物(valent'huomini)ではないと証言している(注5)。このように,彼は同時代の後期マニエリスムや折衷派の画家を高く評価しているにもかかわらず,従米の研究では,ロンバルディアの伝統やミケランジェロやラファエロの古典が彼の画風に果たした役割を強調するあまり,同時代の画家の影轡を軽視するきらいがあった。また,当時のローマ画壇については,本格的な研究がなされていなかったという事情も,両者の関係を不明瞭にする一因となっている。16世紀末は,シクストゥス5世に始まる大規模な造営事業に伴い,教会や宮殿において膨大な美術作品が生産されたにもかかわらず,質的な低さのゆえに研究が立ち遅れ,その全貌や画家の事蹟についてはいまだ不明瞭な点が多い(注6)。そこで本稿では,これまでに私が見つけたいくつかの例を中心に,断片的ではあるが,カラヴァッジオの作品の背景となった16世紀末「移行期」のローマ画壇の代表的な画家とカラヴァッジオとの関係を,図像的な点において探ることをこころみた。まず,カラヴァッジオの実質的なデビュー作となったサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂の「聖マタイ伝」連作と密接な関係にあると思われる,サンタ・マリア・イン・アラチェーリ聖堂マッテイ礼拝堂の装飾について考えたい。作者ジローラモ・ムツィアーノ(1532-92)は上記のように16世紀半ばの深刻な敬虔主義を代表する後期マニエリスムの画家で,グレゴリウス13世治下(1574-1585) にめざましく台頭し,1593年にはフェデリコ・ズッカリとともにアカデミア・ディ・サン・ルカを創設するなど,この時期の画壇に最も影響力をもった画家のひとりである(注7)。1586年から89年にかけて制作されたマッテイ礼拝堂の装飾は,主題の点でも,壁画技法の点でも,10年後のコンタレッリ礼拝堂壁画の直接的な先例となった1 ムツィアーノ-182-

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