鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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て再現したのである。この天使はまた,1610年にパレルモで制作した「生誕」〔図9〕の舞い下りる天使にも変貌していったようである。わずかひとつの例であるが,ローマを去った後年になってもその図像を借用するほど,カラヴァッジオはロンカッリの作品を深く研究していたことがわかる。カラヴァッジオがローマに出て間もなくそのエ房に入ったジュゼッペ・チェーザリ通称カヴァリエール・ダルピーノ(1568-1640)にカラヴァッジオが大きな影響を受けたことは間違いなく,一種の定説と化している。しかし,ダルピーノのもとで描いたとされる静物画の問題を除いて,カラヴァッジオの作品にその具体的な痕跡が見出されることはほとんどなかった(注16)。カラヴァッジオと歳も近いダルピーノは,彼より10年早くローマに来て頭角を現し,クレメンス8世治下(1592-1605)にはローマ随一の公式歴史画家として圧倒的な力をもって画壇に君臨していた(注17)。ダルピーノは1593年にサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂の装飾を引き受けて天井ヴォールト部分のフレスコを完成させるが,その後制作が遅延したため,1599年に側壁の壁画がダルビーノにかわってカラヴァッジオに依頼されることになった。しかし,ダルピーノが準備していた「聖マタイの召命」のためのデッサンを見ると,上述のムツィアーノ作品ともカラヴァッジオのものとも大きく異なっており,カラヴァッジオはダルピーノの構想を完全に無視するか,あるいは意図的に逆らったかのようである。しかし,上述のように,カラヴァッジオもダルピーノを優れた画家の一人として認めており,その作品を熱心に学んだはずである。二人の影響関係の証左として,ダルピーノが1588年か89年にサン・ロレンツォ・イン・ダマソ聖堂のために描いた「貧者と病人の中にいる聖ラウレンティウス」を挙げることができる(注18)。消失したこの作品は正確なコピー〔図10〕から図様をうかがい知ることができるが,画面左下で背を向けて座る裸体の人物が,左右反転した形でカラヴァッジオの「慈悲の七つの行い」〔図11〕の画面左下に登場するのである。左右反転している点から,ダルピーノの作品の版画を用いた可能性も考えられる。このポーズは,マニエリスムの作品においては必ずしも珍しいものではなく,もともとはカピトリーノ美術館にある有名な「瀕死のガリア人」を背面からとらえたもので,カラヴァッジオはこの彫像から直接学んだという考えもある(注19)。しかし,単に人物像のポー3 ダルピーノ-185-

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