鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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27)。だが,二人の影響関係についてはいまだに定説がなく,はっきりしていないので1600年にティベリオ・チェラージはサンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂内にある一え(注23),その後カラッチの再評価がすすむにつれ,ともに自然観察から出発し,ミケランジェロやラファエロといった古典を研究したという共通性が明らかになった(注24)。また二人は,ローマにおける画家としてのデビューも,ローマ画壇から姿を消すのもほぼ同時期であり,その経歴と運命は「奇妙にも一致」(注25)している。実際,二人は生前よく並び称されており,たとえば1600年頃のローマ画壇の評判を伝えたファン・マンデルは二人を併記して称賛しているし,ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵は,当代の画家を12のカテゴリーに分類した1620年以前の有名な手紙で,マニエラに従いつつ自然を参照して描くという最高のカテゴリーに二人を分類している。このジュスティニアーニを始め,二人には共通のパトロンが多く,当時からライバルと目されていたらしい(注26)。カラヴァッジオが例の裁判でアンニーバレを有能な画家として証言し,また,マルヴァージアの伝えるところではサン・カテリーナ・デイ・フナーリ聖堂にあるアンニーバレの「聖マルガリータ」を称賛したということから,カラヴァッジオがアンニーバレを雌敬していたのは確かであろう(注ある(注28)。族の礼拝堂の壁画制作を,二人の画家に注文し,競作させた。アンニーバレ研究の基本的なモノグラフとなった大著において,二人の影響関係について1章を裂いたポズナーは,この公開競作が二人の画家に相互に及ぼした甚大な影響について分析しており(注29),その考え方はその後も何人かの研究者に繰り返されている(注30)。つまり,カラヴァッジオに対して激しい競争心と脅威を抱いたアンニーバレが,チェラージ礼拝堂の祭壇画「聖母被昇天」において,明暗を強調したカラヴァッジオの自然主義的な様式を意図的に回避するべく,明暗を排した明るい色彩によって高度に理想主義的な冷たい様式を展開し,一方,側壁に「聖ペテロの傑刑」と「聖パウロの改宗」を描いたカラヴァッジオは,画面一杯に人物のボリュームが充満するアンニーバレの様式を模倣し,原色を用いるボローニャ的な色相を導入したというものである。晩年のアンニーバレの生硬な古典主義化,さらには制作不振の欝状態の契機となったのもカラヴァッジオの存在であったというポズナーの説はともかく,カラヴァッジオの円熟様式がアンニーバレとの接触によって生じたというのは確かだと思われる。では,カラヴァッジオの具体的な作品のうちにアンニーバレの作品の影響を探るこ-187-

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