1607年のふたつの大画面に投影されたと考えられるのである。初めて取り組んだ複雑な人物構成が示されており,多方向を向く人物群が強引にひとつの画面につめこまれている。アンニーバレの作品のような集中性はなく,一見乱雑な感を与えるが,この大胆な画面構成を促したのはアンニーバレ作品であったと考えられないだろうか。アンニーバレの作品の画面右端で病人を運ぶ男や,画面中央で横を向く女性は,カラヴァッジオ作品においては画面中央で死体を運ぶ男と,画面右端で牢獄の父親に乳を与えるペーロにそれぞれ転化したようである。ただし,若い頃からフレスコの大画面で習練していたアンニーバレと比べ,カラヴァッジオが群像処理を苦手としたことは明らかであり,強い明暗対比によってその弱点を隠そうとしたといってもよい。いずれにせよ,アンニーバレのモニュメンタルな「聖ロクスの施し」の記憶は,カラヴァッジオの「ロザリオの聖母」と「慈悲の七つの行い」という,結語以上見てきたことからわかるように,カラヴァッジオの作品には,明らかに同時代の画家たちの影響が見られるのだが,ただしそれは彼がラファエロやミケランジェロを引用するときと同じく,図像や構成の上に限定されており,それらは自然主義的で明暗対比の強い彼独自の様式によって処理されているため,一見その影響が判別しがたいのである。また,以上の考察で,「慈悲の七つの行い」という一枚の画面だけで,ロンカッリ,ダルピーノ,アンニーバレ・カラッチの作品からの影響が指摘できたが,これらは彼が1603年の裁判で有能な画家と認めた4人の画家のうち3人である。この証言は,単に世評が高くカラヴァッジオの作風を真似することのない無難な画家を選んだのではなく,彼自身が注目しその作品を研究していた画家であったといってよいのではないだろうか。カラヴァッジオは,同時代の後期マニエリスムの画家たちを軽蔑し,ミケランジェロやラファエロを正当な古典として意図的に模倣したという通念か根強いが,彼にはそのような歴史観は希薄であり,古典であれ同時代のものであれ気に入った作品を貪欲に吸収したのではないだろうか。そしてその記憶を,彼はローマを後にしてからも保ちつづけたのである。ここで考察できた例はほんのわずかであり,研究の遅れていたこの時期のローマ画壇について今後の調査研究がすすむにつれて明らかになることも多いであろうが,カラヴァッジオが同時代の画家たちと切り結んだ関係の一端を垣間見ることができたと-189-
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