であり,テクスト研究の面では是非訪れるべき場所である。同時に,サンクト・ペテルブルクのエルミタージュ美術館には,ディドロが仲介してエカテリーナ2世の手に渡った有名なクロザ・コレクションが所蔵されており,これはディドロの『絵画論』に関連する最も重要な絵画資料の1つである。後者について先に記す。このコレクションの母体を作ったのは,ウァトーの後援者として知られる銀行家ピエール・クロザ(1663■1740)の個人コレクションだが,その死後,このコレクションは3人の甥の手に順次継承されてゆく。その3人目にあたるド・チェール男爵(ルイ=アントワーヌ・クロザ1699■1770)の死に際して売りに出されたものが,ロシアに渡った作品群をなす。この間,3回にわたって遺産目録もしくは売り立て目録が作成され,今日,クロザ・コレクションの構成は全貌が明らかになっている(GBA1968年号に編集されたカタログが掲載されている)。ディドロの仲介は1770■72年のことで,そのこと自体は『絵画論』のずっと後の出来事である。かれは1759年にサロン展の評論を書きはじめ,65年のサロン評の直後に,自らの批評の立脚する原理を明らかにするために『絵画論』を構想し,66年の『文藝通信』に5回にわけてそれを公表した。この時期に,かれがクロザ・コレクションの絵画作品を観たという証言を,これまでのところわたくしは見つけていない。しかし,その蓋然性は極めて高い。少なくともルイ=アントワーヌについては,51年にコレクションを継承したあと,それを公開していたことが確認されており,55年にはガイドブックとなるカタログまで作成されていたからである。当時公開されていたコレクションのなかで,今日まとまった形で保存されているものとしては,このクロザ・コレクションは最大のものであり,『絵画論』研究のうえでの資料的な価値は高い。ペテルブルクでは勿論,このコレクションの調査を行った。2 『絵画論』の写本資料次に『絵画論』の本文に関する資料である。ディドロの自筆稿は現存しない。これが最初に公表された『文藝通信』誌は,手書きによってごく少部数作成され,北方の王侯たちを購読者としていた特殊な刊行物である(今回,その現物を手にとってみて,これが雑誌というよりも,その名〔『通信』〕の通り手紙である,という確信を得た)。現在確認されている限りでは,『絵画論』の出ている号は,ストックホルム,モスクワ,ゴータの3か所にしかない。これら3つの写本が,この著作の最もオリジナ-13 -
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