鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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翌1937年には,この展覧会で主導的な役割を果たしたベルリン国立博物館群総長のキ具体的な考察を行う前に,桑原氏の展覧会の指摘がかなり短いものであるため,展覧会カタログや新聞,雑誌などの資料によって補いつつ,ベルリンの日本古美術展覧会の概略を示す。「伯林日本古美術展」は,当時DeutschesMuseumと呼ばれたPergamonMuseum の北側翼部において1939年2月28日より3月31日までのおよそ1カ月間にわたって開催された。その間の観客動員数は,主催者の東亜美術協会の報告によれば(注4)'6万7千人で,一日に2千人をうわまわる数に及んだ。展覧会の開催は,展覧会のカタログによると,もともとドイツ側のたっての希望だったとされる。それは,1936年頃に当時駐日大使であったディルクセンの提案によるもので,かれが,展覧会によって日本精神の特質をドイツ国民に知らしめようと考えたのが展覧会の発端になったといわれる(注5)。このディルクセンの提案を契機に,ュンメルが来日して話を具体化し,最終的にこの展覧会は,日本政府の支援のもとに(注6)'ベルリンの東亜美術協会と国立博物館群総長キュンメルの名によって開催された。展覧会では,名誉総裁に空軍元帥ゲーリンクと当時の首相平沼麒一郎を置き,その下に約60名による委員会が設置された。そこに名を連ねた人物として,例えば,ドイツ側では宣伝大臣ゲッベルス,外務大臣リッベントロップ,親衛隊隊長ヒムラー,日本側では元首相近衛文麿,外務大臣有田八郎,駐独大使大島浩等の政府要人がいる。また,学術的な立場にあった人物として,ドイツ側では前駐日大使で東亜美術協会会長ディルクセン,国立博物館群総長で東亜美術協会副会長キュンメル,国立博物館東洋部長ライデマイスター,ハンブルク大学総長グンデルト(注7),版画家フリッツ・ルムプフ,日本側では伊東忠太,上野直昭,藤懸静也,正木直彦,溝口禎次郎,和田英作,亀田孜,兒島喜久雄,圃伊能,矢代幸雄,山田智三郎等がいた。その中に作品選定委員として秋山光夫,福井利吉郎,丸尾彰三郎が認められる。選定委員によって選ばれた出品作品は総計126点に及んだ。選定に際してはドイツ側から作品の量よりも質が求められ,また仏画,大和絵,近世の装飾画を中心とした日本画と仏像彫刻による体系的な枠組みも設定され,それに基づいて日本側が具体的に作品選定を行った(注8)。そのため,選定された作品のうちの四分の三までもが,1 「伯林日本古美術展」の概略-227-

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