鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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15点。御物く厩図〉を含む諸派装飾屏風計5点。探幽筆く四季松樹図〉を含む狩野派計5点。宗達筆<舞楽図〉を含む光悦と文人画計16点。応挙筆く写生図巻〉(注11)を和14年1月に日本の外務省事業部の発行した国際文化事業パンフレット第19号の『日Der Angriff(注15)には,文化協定の締結によってこの展覧会が開催したとする記国宝,重要美術品の指定を受けた作品で占めることになった。ここで展示された作品を,カタログの分類毎に紙幅の問題により代表作,総数の順で以下に記す。法隆寺所蔵く観音菩薩像〉を含む彫刻計18点。観智院(現,個人)所蔵<閻魔天像〉を含む仏画計23点。久邁宮(現,奈良国立博物館)所蔵く絵因果経(巻第二断簡)〉(注9)を含む大和絵計17点。雪舟筆く夏冬山水図〉(注10)を含む水墨画及墨画系装飾屏風計含む円山四条派計6点。歌麿筆く更衣美人図〉を含む浮世絵計6点。なお浮世絵は肉筆に限り,数も6点にとどまっており,従来とは異なって浮世絵に重点が置かれることはなかった。ベルリンの日本古美術展については,これまで主たる研究対象にされることはなかったが,もちろん指摘はなされてきた。その際の評価や,また展覧会を論考した桑原氏の指摘は大方,政治的要因で実現した展覧会とするものである(注12)。すなわち,日独両国間において1936年11月25日に反ソ連を背景にして締結された防共協定と,展覧会開催わずか4カ月前の1938年11月25日に結ばれた文化協定とに貢献するかたちでベルリンの展覧会が実現したと理解されているのである(注13)。実際に,昭独文化協定について』では,外務次官箕輪三郎が,日独文化協定によって「更に特筆大書すべきは本春(昭和14年3月)伯林に於て開催せらるることになつてゐる日本古美術展覧會である,之は我が國が外國で組織した展覧會中會てその比を見ない高級大規模のもので,御物,國賓,重要美術品合計二百餘黙の我が古美術の逸品が展示される事になつてゐる」と記しているし(注14),ドイツにおいても,ナチス党機関誌の事が見られ,展覧会と政治との関係は当時十分認識されていた(注16)。ただし展覧会の計画経緯からみるならば,当初から政治と結びついていたわけではない。今回の調査では,展覧会の前史をも調査範囲とし,ミュンヒェンで1909年に開催された「美術における日本と東洋」及びベルリンの東亜美術協会の活動,また当時からのドイツにおける日本の美術研究の出版や展覧会の状況などを調査することができた。それによって,当初はドイツの日本美術研究者たちが政治とは関係なく,研究の立場から日本古美術展を構想していたものの,国宝保存法などの問題からナチス政権の力を借り-228-

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