鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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VりlkischerBeobachter, Miinchen版の1939年3月1日付を例にとるならば,「ヒトラて実現に至ったことを明らかにすることができた。これについては紙面の関係で本稿では割愛するが,第51回美術史学会全国大会で発表した(注17)。当時防共協定などで日本に接近を計ったナチス政権としては,アーリア文化至上主義の中にあっては好ましからぬ非アーリア人にすぎない日本人を,友邦とするに相応しい文化を保持する民族としてドイツ国民に理解させる必要があり(注18),古美術展はそのための恰好の文化戦略になった。では,ナチスドイツにおいて古美術展は具体的にどのように紹介されたのだろうか。日本美術のドイツ側の理解も合わせて検討する。2 展覧会評にみるドイツ側の戦略2-1 ヒトラーの展観した展覧会としてまず,文化政策に力を入れていたドイツがどのようにマスメディアを使って古美術展を宣伝したのかをみてみよう。当時発行された現地の新聞,雑誌からは,ドイツ側の戦略として,次の3点が指摘できる。第一には,ヒトラーが関心を示した展覧会として強調されたことである(注19)。筆者の調査による関連記事数は,およそ113件を数える(表1参照)。その新聞記事の多くは,写真を利用して,ヒトラーが他の政府要人らとこの展覧会の開催式典に臨席したことを視覚的に伝えている。しかも興味深いことに,有力新聞VolkischerBeobachterではひんぱんにこの件がとりあげられている。また,報告される内容も,大方画ー化されている(注20)。つまり,掲載された内容の多くは,ヒトラーが式典にのぞむ様子に重点が置かれたものであった。ーが正午わずか前に,日章旗とハーケンクロイツの旗で飾られた式典の催されるペルガモン博物館の入口にあたる英雄広場に到着し,元帥ゲーリンク,外務大臣リッベントロップなどに出迎えられて式典に望み,……盛大に式典が行われた」と記されている(注21)。これとほぼ同様の内容が,以前はリベラル派で知られたBerlinerMor-genpostをはじめとする他の多くの新聞でも報告された。一方日本側の報道では,ドイツ側とは若千の相違が認められる。すなわち,ドイツ側と同様に,日本側でも,ヒトラーの式典臨席や展覧会巡観が大きくとりあげられたが,ドイツでは,式典にのぞむ場面にスポットをあてられた場合が多いのに対して,日本では,式典の様子だけではなく,どの作品が気に入ったのかといったヒトラーの-229-

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