鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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ルと政治レベルで,作品の認識において相違があったことがわかる(注28)。日本でもこの点についてはあいまいな形で報道されており,例えば,ベルリンに同行した兒島喜久雄は「今度の日本古美術展は実に1900年のパリ万博や日英博覧会以来の展覧会で,而も其質に於いても,量に於いても,系統的な組織に於いても空前の大展覧会であった」(注29)と記しているし,また昭和13年の『読売』新聞11月13日付の記事には「そのとき(日英博覧会)にくらべて今回ははるかに優秀なもの」としてベルリンの展覧会は記載されている。第三に,女性に向けた展覧会としても宣伝されたことである。この展覧会関連の新聞の中には,わざわざ女性に展覧会を巡観させて報告するという記事が見られ(注にすぎなかったにもかかわらず,その中に女性雑誌DieDameが含まれ,しかもそこでこの展覧会が大きく掲載されて紹介されたのである(注31)。展覧会のとりあげられ方には,やはり女性読者を意識した面がみられ,例えば,前者でははなやかな装飾的な屏風を中心に展覧会をメルヘンティックなものとして紹介しているし,後者では,婦人雑誌にしばしばみられるように本文よりも図版部分が積極的に掲載されている。ではなぜ女性雑誌だったのか。日本でも同時期に,新聞では女性欄が充実し,読者に女性を強く意識していたことがわかる。戦時体制下で男性が戦争準備のために駆り出されていた時期には,残された女性がターゲットになったといえる。このようにベルリンの古美術展は,ナチス政権の文化政策のひとつとして,実際にマスコミを通じて意図的に誇張され,ドイツ国民に宣伝されていたのである。次に,展覧会評における出陳作品の具体的な評価とともに,ドイツ側がどのように日本美術をとらえたのかを,日本側の展覧会評と合わせて確認したい。まず,その前に,ドイツにおいて特にどのような作品を紹介しようとしていたのか,日本側の意図を知る必要があろう。昭和13年11月22日付の『読売』新聞(注32)によると,日本側としては,当然のことだが,御物や国宝の質的に高い作品を紹介しようとしており,具体的な作品としては,なかでも御物の2点のうちく厩図〉が頻繁2-3 女性に向けた展覧会として30),また展覧会は新聞には注目されながら,雑誌にはわずか5誌がとりあげただけ3 展覧会評にみる日本美術観3-1 日本側の作品選択-231-

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