注(1) 例えば,1988年に東京国立西洋美術館で開催された「ジャポニスム展」でのカタ1912年「東洋古美術展,中国と日本展」,ミュンヒェンの1930年「10世紀から181932年「ブランデンブルク侯コレクションに見る中国と日本展」がある。特にナ1906年に移された。ヴィルヘム・ハース「メッセージ」『ベルリン東洋美術館名は必ずしも結びつかない,独自の認識がなされていたのである。おわりに以上のように,当時日独双方で出版された新聞や雑誌などからは,まず古美術展が,ナチスの文化統制の中に組み込まれ,ヒトラーの関心を示した展覧会として,あるいは欧州で一番すぐれた日本古美術の展覧会として強調され,また場合によっては女性にも向けて宣伝されていたことが確認し得た。日本側がドイツ側に対して期待した作品選定の意図は,ドイツの専門家たちによって大方理解されていたが,一般観者の間では,日本側の意向に答える評価を示しつつも,一部に日本側が特に注目しなかった浮世絵が,数ある中から選ばれ,海外における従来の日本美術観,すなわち,浮世絵=日本美術の見方が,19世紀以来一般的な認識として流布していたことが明らかになった。ベルリンの古美術展については,展覧会後のドイツの日本研究に与えた影響などの問題が残されているが,それらは今後の課題にしたいと思う。ログに掲載された関連年譜からも,ドイツでの日本美術の動向があまり活発ではなかった印象を得る。カタログでは1910年の日英博で終わっているが,むしろドイツの場合には,その以降においてH本美術関係の展覧会がわりと頻繁にみられる。例えば,ミュンヒェンの1909年「美術における日本と東洋展」,ベルリンの世紀までの中国と日本の絵画展」,ベルリンでの1931年「日本の現代絵画展」チスは政治的に日本への接近を計り,同時に学術的な面でも日本に密接な関係を示すことになり,第三帝国期の日本との関係は見逃せない。またドイツでは,ボーデにより,東洋美術とともに日本美術を早くに美術史の範疇でとらえる主張がなされ,そのため,ベルリンの日本美術関連の作品は,一部そのままに残されたものもあるが,工芸美術館や,民族博物館での所蔵から,美術館での所蔵へと-234-
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