鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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(15) ナチス党機関誌のひとつ。30.12. 1938., Niederslichsische Tageszeitung 13. 01. 1939 (16) 文化協定について具体的に触れた新聞は以下の通り。Niederslic加ischeTageszeitung 13. 01. 1939., Hamburger Nachrichten 17. 01. u. 18. 01. 1939, Berliner Tage-34頁。いる。帰国間近の昭和10年11月16日に東大で,「ドイツにおける日本学の意義」と題して講演を行い,そのなかで,これからはドイツ国民として日本国民を理解する必要があるとしたうえで,特に日本の国民性を示す日本精神の研究を促している。なお日本の精神に注目する視点は,日本の国策に結びついた見方といえる。『ドイツにおける日本学の意義』帥日独協会,1935年。同じように,ベルリン大学教授エドュアルト・シュプランガー博士が来日して行った講演においても日本文化の印象として,サムライ精神や武士的道徳観を示す軍隊に注目している。『日本文化の印象』帥日独協会,1937年。グンデルトもそうだが,展覧会の主催者であるキュンメルのドイツでの役職を考えると,日本の研究者がドイツの要職につき,しかも大学総長や,ベルリンの数ある美術館の総長といった最も重要なポストに就いていることは,ドイツでの日本への評価を考える上で見逃せない事実である。(8)選定委員のひとり,福井利吉郎は,選定の特徴として歴史的な体系をとり,学術的な価値を示すものと述べていたが,実はドイツ側からの意向に応えた結果であった。福井利吉郎「緒言」『伯林日本古美術展覧會記念圃録』伯林日本古美術展覧會委員會刊行1939年所収,XLIX頁。なお全出陳作品については紙幅の関係で割合した。(9) 当時は,奈良時代の作品ながら,大和絵に分類された。現在は奈良国立博物館に所蔵される。(10) 現在はく秋冬山水図〉といわれる。(11) 個人蔵のもので,現在はく花鳥写生図〉といわれる。(12) 注3に挙げた既往の研究のほとんどが,日本古美術展を政治色の濃い展覧会として評している。(13) 桑原,前掲論文,287-288頁。(14) 『日独文化協定について』国際文化事業パンフレット第19号,外務省文化事業部,-236 -

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