鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
247/711

(11) 1998年5月,美術史学会全国大会にて「ベルリンにおける日本古美術展ー政治的動向と東亜美術協会の活動をめぐって一」と題して発表した。(18) デトレフ・シャウベッカー「独日文化交流ー1930年代から1940年代前半にかけてー」『ドイツ・日本問題研究II』関西大学経済政治研究所,1994年,361頁。(19) ヒトラーの関心を示した展覧会とする日本側の報告として,兒島喜久雄が「新聞雑誌は開会当日から一斉に写真入りの記事を掲載した」と,山田智三郎が総統の式典臨席の翌日について,「3月1日の新聞紙は何れも競って総統の出席,開会式の模様,展覧会の内容を大見出しで書き立てた。伯林及地方の大新聞は勿論,地方の小都市の小新聞までが多くの紙面を割いて書き立てた。……此の日ばかりではない。展覧会がはじまって半月ばかしと云う物は,いろんな新聞に美術史専門家の解説や,詩人の印象記のようなものが度々掲載された」と指摘している。⑳ ナチスのメディアは法規制によって画ー化が前提となっている。とはいってもゲッベルスが,ある程度の差が生じるように,微妙な強弱をつけていたとも云われる。ゲッベルスについては以下を参照。平井正『ゲッベルス,メディア時代の政治宣伝』中公新書1991年山田智三郎の指摘では雪村筆のく風濤園〉,抱一筆く風雨草花圏〉,永徳筆く松鷹圏〉,宗達筆<扇面散圏〉であったという。雪舟のく夏冬山水圃〉にはとくにひかれなかったらしい。山田智三郎「伯林日本古美術展雑記」『アトリヱ』第16巻ーの評価は,その後の日本美術の評価にも少なからぬ影響を与えた。ヒトラーに気に入られた雪村のく風濤図〉は,この時を境に高く評価されるようになったからである。矢代幸雄,前掲書,133-134頁。(24) 山田,前掲論文,42頁。blatt 18.01.1939., Zeitung fiir Ostpommern 19.01.1939., Dresdner Neueste Nachrichten 19. 01. 1939., Neues Wiener Journal 20. 01. 1939., NeukりllnerTaglatt 20.01.1939., Niederdeutscher Beobachter 20.01.1939., Deutsche All-gemeine Zeitung 09. 02. 1939.主に有力新聞がとりあげている。(2l) VりlkischerBeobachter, Mlinchen-Ausgabe, 01. 03. 1939 (22) また都新聞昭和14年3月1日付でも読売新聞と同じ内容が報告されている。また第8号,1939年,44頁。(23) 兒島喜久雄「伯林日本古美術展」『改造』第21号9月号,141頁。こうしたヒトラ-237-

元のページ  ../index.html#247

このブックを見る