鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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(21) "Kaiserliche Sammlung erst mal nach Ausland", Niedersiic加ischeTageszei-(25) 山田,前掲論文,42頁。(28) 桑原,前掲論文,287-288頁。(29) 兒島,前掲論文,141頁。(30) Deutsche Allgemeine Zeitung. Morgen-Ausgabe 19. 3. 1939. "Vor japan-(31) Die Dame, Berlin, Marz 1939. Heft 6. Die Dameは中流以上の読者が多かったといわれる。なお,ナチスドイツの新聞雑誌については以下を参照。ノルベルト・フライ&ヨハネス・シュミーツ著,五十嵐智友訳『ヒトラー独裁下のジャーナリストたち』朝日新聞社1996年。(32) 読売新聞,夕刊,昭和13年11月22日付「学芸特集,日本文化とその海外進出アメリカ万国博覧会とベルリン日本古美術展」内「ドイツに進出する日本古美術展」国宝監査官丸尾彰三郎著。アメリカではほぼ同時期に開催される万国博覧会の記事とともに書かれている。(33) 朝日新聞昭和13年11月13日付「盟邦ドイツに伝ふ,絢爛日本美術の粋,数十点近くの晴れの鹿島立ち」(34) 注(33)参照(35) Westdeutsche Beobachterには,いかに日本の絵画が装飾的でも写実に則り,繰り返しの習作によるものであるか,ということを知らせるために,具体的な逸話まで掲載されている。それは以下のような内容である。商人が絵師に鶏の絵を注文したところ,何年たってもできあがらないので,耐えきれなくった商人は,絵師を訪ねた。案の定絵師はまだ何も描き初めていなかったが,まもなく完成するという。そしてその場で,早描きで完成し,高い報酬を要求した。商人は,早業にそんな高い評価は認められないとすると,絵師は,隣の部屋に商人を連れてゆき,数え切れない程のスケッチのたばを示して,商人を納得させた。つまり長い間の習作なくしては,即興では描けないということがわかったわけである。Dr.(26) "Viele der wertvollsten Kunstschatze Japans erstmalig in Europa gezeigt wer-den", Berliner BりrsenZeitung am 26. 02. 1939. tung, 13. 01. 1939. ischen Faltschirmen. Eine Frau geht

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