は,1765年の約束を果たすために,最晩年のディドロが,自ら筆写人に指示して作成したもので,ディドロの死後,製本の上,女帝のもとに送られた。この著作集のなかには『絵画論』は含まれていない。他にも重要な著作としては『劇詩論』や『私生児対話』などが含まれておらず,謎を残している。おそらく計画が完遂される前にディドロが亡くなった,と考えるのが至当と思われる。残された『著作集』のなかにある短いテクストのうちの明暗法に関するものを『絵画論』のなかに挿入したのは,ディドロの最初の印刷本著作集を編んだネージョン(1798年)で,以来,この補足的な1章は『絵画論』の一部をなすものとして流通している。ペテルブルクでのこの写本の調査によって,面白い事実を1つ発見した。この章の末尾近く,J=J・ルソーの肖像画にふれて,「マルモンテルの詩句は……」(上記全集本370頁)という箇所がある。版本ではこの文は,この主語にそのまま動詞が続くように記されている。しかし,ペテルブルク本では,この主語のあとにカンマが置かれ,1行分の空白が空けてある。この写本著作集は,別の著作に移るときにも空白を空けず,「追い込み」で書き続けているから,このような空白は例外的なものである。このことは,ディドロの自筆稿が,ここに問題の詩句を引用しようとして空けておいたまま,ついに調べがつかずに残されたものと考えられる。この空白を無視し,テクストにあったカンマをも消去してしまう機械的な処理には,首をかしげざるをえない。本報告の冒頭に列挙した研究の課題のうちの(3),すなわち『絵画論』の執筆に際してディドロが参照し,影響を受けたと考えられる過去の絵画論を検討するうえで,1 つの手掛かりの糸口を見つけたので,それを記しておきたい。ディドロが図書館から借りだした絵画論上の著書については,既にJ・プルーストの実証的な研究があるリーナ2世はディドロの蔵書を買い上げた上で,その終生の利用を許可した(上記の著作集の贈与は,この好意に対するかれの謝意の表現だった)。そこで,かれの蔵書は,その死後,一括してロシアに送られたのだが,女帝の死後,これらはばらばらになり,目録も作成されていなかったために,その実態は不明となっている。上記写本著作集の調査のためにサルチコフ=シチェドリン図書館を訪れた際,稀観本課長N・A・コパニェフ氏からこれについて興味深い事実を知らされた。すなわ3 ディドロの蔵書目録(GBA, 1960年)。もう1つ重要な柱はディドロ自身の蔵書である。1765年,エカテ-15 -
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