⑫ 南薫造・永瀬義郎,疎開時代の活動研究〜疎開が残した中央画壇の地方への影響〜研究者:ひろしま美術館学芸貝古谷可由はじめに戦前戦中を通じて中央画壇で活躍していた芸術家のなかにも,戦争の激化にともない地方に疎開していった者たちが数多くいる。芸術家にとって厳しい時代に,それぞれの地域で,文化の戦後復興にこれら中央画壇の芸術家たちが果たした役割は大きいと聞くが,この点に焦点を合わせた研究はまだ十分に手がつけられていない。今回の研究は,偶然にも同じ広島県芸南地域(注1)に疎開していた南蕉造・永瀬義郎の活動を追うことで,戦後の広島地域の文化にこれらの芸術家たちが,どのような影響を残したかを明かにしようとしたものである。とくに,終戦直後の生活にも窮する時期に設立された「芸南文化同人会」の活動を検証することで,当時の文化的状況の一断面を明らかにしていく。1.南薫造と永瀬義郎この地域安浦町出身の南薫造は,東京美術学校を卒業した後イギリスに留学し,帰国後帝展,光風会展を中心に活躍する。帝国美術院会貝,母校東京美術学校教授,芸術院会員,帝室技芸員を歴任するなど,戦前戦中をつうじてまさに洋画壇の重鎮として知られていた。一方,永瀬義郎は,最初の版画家結社東京版画倶楽部,現在の日本版画協会の前身にあたる日本創作版画協会の設立にかかわるなど日本における西洋創作版画の草分け的存在。版画だけでなく油絵,装禎,挿絵,さらには演劇にかかわるなど,戦前戦後を通じて幅広い活動で知られる。戦争が激化する1944年3月南は,家族とともに郷里に疎開。東京美術学校卒業後何度か郷里に住み制作をしていた時期もあるが(注2),18年ぶりの郷里であった。永瀬は,フランスから帰国以来(1936年)大阪にアトリエを開いて活動していたが,1942年,妻サトの郷里である安芸津町に疎開。この地が気に入り「シャトー・ダムール」と名付けるアトリエをたてて活動を続ける。永瀬は,再び東京へ戻っていく1957年まで,ほとんど中央画壇より離れて活動するのに対し,南は,この地に住みながらも中央画壇との関係を保ち,再度東京へ出ていくことを望みつつ1950年願い叶わぬま-245-
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