鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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2.「芸南文化同人会」の設立ま郷里で没する。ともに中央画壇で活躍している著名な芸術家ということで,望む望まないに関わらず,戦後の地域復興に様々な形で,担ぎ出されていた。留学経験をともに持つ南と永瀬であったが,とくに永瀬はGHQの通訳兼文化相談役というような立場でも活動をしていたらしい。こうしたなか,この疎開の地で,二人がともに係わり,芸南文化および広島の戦後文化に大きな影響と足跡を残した活動が「芸南文化同人会」の活動である。この同人会は,戦後まもない1946年に結成され,芸南地域に居する文化人をはじめ広島在住の芸術家も巻き込んで展開される。原爆で焦土と化した広島市,大空襲で大きな被害を受けた呉市の近郊にあって,最初の文化的な活動として特筆すべきものであった。この会の設立にも,永瀬義郎を中心にした疎開組の積極的な係わりを読み取ることができる。自ら設立メンバーのひとりである中野正英は,この会の活動を詳しく書き残している(注3)。その中で挙げられた設立メンバーは12名である(注4)が,中央で活躍の経験をもつ者が永瀬義郎以下3名,また中央展等に出品経験をもちある程度本格的に絵の勉強をしていたと思われる者4名で,他はいわゆる市井の文化人であった。居住地も芸南地域全般にわたり,この地域の文化人有志で結成したという形をとっている。しかし,この中で現在唯一存命中の「浜本少年」(注5)こと浜本武ー氏によると事情は異なる。というより,もう少し詳しいもので,設立前史というものがあったようだ。当時23歳で同人中最年少の浜本少年は,大阪在住の時にすでに永瀬の教えを受けている。戦火がはげしくなり永瀬とも疎遠となったまま空襲で焼け出された浜本少年は,父親の親戚を頼って竹原に移住してくることになり,ここで竹原高等女学校教諭の谷本剛平と出会う。そして谷本を介して知り合った同じく竹原高女音楽教諭の日高脩,竹原頼家の菩提寺照蓮寺の住職高間蓮丸らとともに,戦後の文化状況を憂いて展示会を開いたという。会場は照蓮寺で,内容は浜本少年と谷本の作品を中心にした小規模のものであった。しかし,終戦直後のこの展示会は近隣で話題となり,安芸津に疎開していた永瀬の耳にも入った。ともに戦争末期の混乱のなか音信が途絶えていた師弟の再会であった。以後谷本も永瀬の教えを直接受けるようになり(注6)'日高や-246-

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