高間和尚を加えて,文化再興の話が盛り上がっていったという。その後,永瀬と同じ版画をやり日本版画協会展に出品していた呉在住の朝井清(注7),二科展を中心活動していた疎開組の伊藤勇など,なじみの文化人に呼びかけて「芸南文化同人会」の設立となった。したがって,会長は永瀬だが,事務局を谷本が引き受け,本部も谷本が下宿していた頼家の別邸「衆遠亭」に置かれたのである。この設立の経緯は,中野の記述にも一致する(注8)。いずれにしても,「芸南文化同人会」は,永瀬門弟が市井の文化人に呼びかけて出来たものであった(注9)。しかし,戦後まもない混乱期に,なぜこのような会が企画され,またそれに多くの人間が賛同するに至ったのか。なにを意図したものであったのか。同会の機関誌『芸南文化』創刊号冒頭の言葉が,明確に答えてくれる。「新日本建設とは先ず生存の危機を突破し,同時に人間生活を取り戻すことからはじめなければならない。人間生活を常道に置いて初めて新建設は可能になるのである」(注10)。「人間生活」すなわち文化一般の再興が新日本の建設に必要不可欠であることが宣言されている。また,中野正英も同じく同誌の「地方文化」(注11)のなかで,中央から疎開した知識人・先覚者を掲げて,これらの人々が,地方の文化を指導し文化復興に寄与すべきであることを述べている。さらには,この地方の動きも,ー地域にとどまることなく,「お互いが横に連繋,交流,融合し」て,日本の文化全体を再興させるべきであり,それが日本のみにとどまることなく,さらに世界へと向かう文化の進展を実現させると断じている。これらにみられるように,焦土と化した戦後の混乱期だからこそ,人間生活,精神的生活の常道を取り戻す文化の再興を目指して設立されたものであると思われる。またそれは,中央から疎開した知識人たちの力をかりて地方在住の文化人たちが原動力となるべきだ,という自覚のうえになされたものであった。もうひとつ触れておかなければならないことがある。南薫造と同人会との関係である。南が,同会に参加した時期は定かではない(注12)が,永瀬以上にその中央での活躍は知られていたので,設立メンバーたちが参加を望んでいたことは容易に想像がつく。少なくとも1946年秋の段階では顧問に迎えられ,以後,展覧会への出品,座談会への参加,永瀬などメンバーをともなってスケッチ旅行に出るなど,若き芸南文化人たちに大きな影響を与えた。また,南の伝で広島在住の太田忠が参加する(注13)など,その交友関係のなかから同会がメンバーを増やしていったこともうかがわれる。南は,永瀬とともに,芸南文化および広島の文化に大きな刺激を与える存在とな-247-
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