3.「芸南文化同人会」の活動るのであった。このように,「芸南文化同人会」は,敗戦のなか無と化した文化の再興を求め,市井の文化人たちが立ち上がって興ったのである。それは,ー地方文化の再生だけでなく,日本文化,さらには新日本再生をも視野にいれた壮大な野心を持っていた。また,そのためには中央からやってきた知識人たちを活動の中心に据えるべきことを自覚し,かれらを積極的に生かそうとしていたということができる。「芸術を中心に質の高い文化活動を芸南地区において展開した」(注14)と評される芸南文化同人会の活動はどのようなものであったか。美術部,工芸部,音楽部,文芸部,政治経済部,生活指導部の部門に分かれており(注15),さらに竹原本部,安芸津支部,呉支部のように「支部も適宜県下市町村に置」(注16)かれていたようだが,その組織ははっきりしない。同人の数も総数は不明であるが,一時かなり広範囲の会員を集めていたと思われる。その活動の中心は,前述の『芸南文化』(文芸部)と美術部による展覧会の開催であろう。『芸南文化』は,季刊を意図し夏季創刊号が1946年8月に出版される。第2号は,「節電に依る印刷能力の低下に加えて同人会行事や編集委員の多忙の為」に,秋・冬季合併号という形で同年12月に出版され,第3号はついに出版されることはなかった(注17)。全2号という短命に終わったが,当時の出版物は必ず進駐軍の検閲が必要で,かなり煩雑な作業であったにもかかわらず,書店や駅売りまでやった雑誌であった。創刊号では,永瀬の「巻頭言」をはじめ,中野の「地方文化」,神原の「文化と三昧」などの文章が示す通り,戦後まもない荒んだ時期に,文化の昂揚,地方文化の必要性が全巻にわたって説かれている。いかにも若々しさを感じる内容である。編集の方針も,かつて永瀬が係わり色刷りの意匠や挿絵版画で美しい雰囲気を実現していた『仮面』『詩と版画』のように,「文化の高い,明るい雰囲気の下,創作版画を美しく,力強くいかしたい。従来忘却されがちだった地方文化の向上の為にも,(略)少しでも民衆の心に糧を与え,そして日々の生活により明るい,楽しい光をとうじたい」(注18)というものであった。事実,雑誌全体が朝井清の自画自刻の挿絵・カットで飾られた美しい美術雑誌であった。第2号も,同じく朝井の版画で全巻を飾りたてた美しいものであったが,内容は少々異なっている。先に述べた南蕉造の寄稿をは―-248 -
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