鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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じめ,作家畑耕ーや仏文学者井上究ーら中央で活躍する文化人の寄稿を前面に出し,格調高いものにしようとする意図がうかがえる。3号は出版されることはなかったが,第2号の編集後記から,同じく有名文化人からの寄稿と美しさを備えた雑誌をめざしていたようである。次に美術部の展覧会であるが,最初は同人会結成まもない頃の1946年3月であった。「第1回芸南美術同人会美術展」と銘打って,永瀬義郎,朝井清,谷本剛平,浜本武ーなど(残り2名は不明)6名が総数42点を出品。この地域における戦後第1回目の美術展としては,かなりの入場者を集めたという。同年10月に開かれた秋の美術展は,さらに充実しており,南蒸造をはじめ,神田周三,山下品蔵(注19),太田忠,伊藤勇など中央展で活躍した経歴をもつ画家がならぶ。この2回の美術展とともに,中野が重要であったと回顧する展覧会は,1947年4月に竹原・照蓮寺で開かれた「第6回芸南美術展覧会」であったという。南2点,永瀬2点,神田4点,伊藤3点などが出品されている。ところでこの展覧会は「第6回」と銘打ってあるが,先の第1回展および秋の美術展を第2回展とすると,これらの他に都合3回の「芸南美術展覧会」が開かれたということになる。現在出品目録をはじめ何の記録も残っていないが,浜本少年の記憶によると,「第6回」と同じく谷本剛平を中心に竹原の照蓮寺で開かれていたという。永瀬のアトリエが同人会の中心になり,また『芸南文化』の発行も呉の朝井と大同印刷が中心で,同人の数も呉や安芸津,さらには広島市で急増していった関係上,呉中心で会の運営がされていた。美術部だけでみても,呉支部展の回数が増えていく。一方で,本部のおかれた竹原では,竹原周辺の同人を中心に展覧会が繰り返されたようである。南や永瀬,朝井は請われて毎回出品していたが,後は竹原周辺の会員が中心であった。また,竹原の特徴として,第6回の目録にも名前が上がっているように,水戸範雄,天野丈作,さらには坊一雄などメンバーと関係なく竹原ゆかりの作家たちの作品を陳べており(注20),次第に独自色をもつようになる。それが照連寺を中心に現存する竹原市美術協会へとつながっていったという。一方,呉の同人でも先に述べたように支部展という形の展覧会が増えていくなかで,同人会とは別に活動としていた呉在住の美術家も集まり1946年11月呉市美術協会が成立する。朝井は,副会長に就任し(会長は名誉職の呉市長),実質上同協会の頂点に立つことで,協会での活動が徐々に増え,1947年には「白玄会や芸南文化は美協に吸収されたかたちになる」(注21)と言われるほどであった。いずれにしても,呉でも竹原でも,-249-

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