鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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在住の美術家たちが,同人会の展覧会他で南や永瀬などに接しながら,独自の地方組織を作っていったということがいえよう。文芸部と美術部の活動について述べたが,部組織といっても,形式的に分かれていただけで,さほど実質がなかったようだ。一人のメンバーがいくつもの部をかけ持ちするのは普通で,文芸部の編集会議と美術部の企画会議が同時に同じメンバーで開かれたこともあった。浜本少年の思い出によると,永瀬のアトリエに集まり,そこで懇談するなかでさまざまな企画が持ち上がり実行にうつされていたという。このアトリ工はいわばサロンのような役割を果たし,同人会の活動の中心であった(注22)。ここでは絵画はもちろん,文化一般や政治経済にいたるまで様々な話題があがった。留学を経験している永瀬と南の当時の思い出話や,南のもってくる中央画壇の話などを,メンバーは,どんな心持ちで聞いていたことであろうか。音楽や演劇,文学の話になると,実際に即興の詩や音楽を奏でることもあったという。また,「生活指導部」という戦後の混乱期ならではと思える部が存在していた。講演会という形の活動もうかがえるが,この部の中心は永瀬の妻サト主催のフランス料理教室であった。サトは,フランスでの経験を生かし大阪時代には「グラマン」というレストランを経営していた(注23)こともあって,ここでも近郷名士の婦人たちを集めて様々な講習を開いていた。食料にさえ窮する時代ではあるが,そこは田畑と瀬戸内の幸に恵まれた芸南地域ならではで,これらの食材を使ってのフランス田舎料理は,人々に精神的な活力と明るい話題を提供していたにちがいない。「もっとも美しい思い出」として浜本少年や中野正英の記憶に残っている。一方,南は,永瀬のサロンにもしばしば顔を出していたようだが,それ以上に,同人会で知り合ったメンバーを伴って度々スケッチに出かけていた。当時瀬戸内の海を描くことの多かった南にとっても,その地に詳しいメンバーは,心強いものであったであろう。もちろんお伴したメンバーは,絵を描く南の姿に直接触れて大きな刺激を受けたと思われる。また,南は,様々な座談会にも招かれて足を運んでいる。展覧会後の懇親座談会,鉄道局主催の観光ルート開発の懇談会,そして地元有志らによる町づくりの座談会などである。これらの会合で語られる南の経験は,当時の若者たちに大きな影響を与えたにちがいない。このように,「芸南文化同人会」の活動は,『芸南文化』や展覧会を通じて,南や永瀬など疎開組の持ってくる芸術に接する機会を提供すると同時に,永瀬のサロンやス-250-

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