鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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も1947年春を最後に合同で開かれた記録は残っていない。このあたりの事情も現在で4.「芸南文化同人会」以後24)。浜本少年も永瀬に従って広島に居を移す(注25)。南も,安浦に残りながらも中ケッチ旅行などを通じて直接的に中央画壇に触れる機会をもたらしていた。これら地方に住む文化人にとって新鮮で興味あふれる刺激と,積極的な意味で敗戦がもたらした新しさとがあいまって,地方文化の興隆に大きな足跡を残したといえよう。いずれも,やがてそれぞれの道を歩み始める文化人たちに,大きな力を与えたことは容易に想像できる。浜本少年の「あのころが,私の原点であり,源です」という言葉が印象的であった。「芸南文化同人会」の活動は,『芸南文化』が1946年12月の第2号で終わり,展覧会は分からない部分が多いが,浜本少年の話だと,やはり永瀬という求心力を失ったことが大きかったのではないかという。永瀬は,やがて広島にあるエリザベート女子短期大学の美術科教師として広島に通うことが増えて,そこが活動の中心になる(注央画壇での仕事や,徐々に復興をみせる広島市での活動が増えてゆく(注26)。また,前述のように,美術部の活動も在住の美術家による呉市美術協会の活動や竹原市美術協会の活動へと分裂し,それぞれ発展的に解消した形になる。このように「芸南文化同人会」は,その役目を静かに終える。それは,全国的に見ても多くの芸術家たちが徐々に中央に戻りつつある時期に合致する。広島市域でみても,芸南地域とという瀬戸内沿岸の田園部よりも,県都として徐々に復興を見せる広島市に芸術家が集まりはじめ本格的な活動が再開されるようになっていくのである。しかし,「芸南文化同人会」の残したものは大きかった。この地域在住の美術家にとっては,一時ではあっても最先端の美術に触れることができ,その後の活動へと直接的につながる出発点になった。また,疎開をしていた者たちにとっても,終戦直後自らの芸術活動の出発点が各地方にあったという点で大きな意味をもつ。おわりにこの時期のこの種の研究,各地方を対象にした研究はほとんどなされていないのが現状であろう。今回の私の調査も,まだまだ分からない部分が多い。しかし,戦後50年余が過ぎ,また混乱期であったということもあって,資料が分散しつつある今だか-251-

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