鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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(9) 神田周三は,中央での活動経験も長く,広島市在住の画家で,メンバーの中では一人異質であるが,戦前に広島美術院・広島洋画会の設立に朝井とともに参加するなど,朝井との交友関係のなかで参加したと思われる。(10) 『芸南文化』創刊号3頁(11) 『芸南文化』創刊号4頁(12) 南と永瀬が以前から面識があったとしても不思議はないが,その事実は残っていない。疎開先で永瀬が中野・浜本を伴って最初に訪れたときの経緯が中野の前掲書に触れられている。だがこの時期もあいまいである。中野正英の記録によると,地元の小学校校長から南のところに,戦後のすさんだ校下の雰囲気を美しくするため,展覧会を開きたいとの相談があった。南は早速同人たちによびかけて実現するが,その時期は,後に述べる竹原で開かれた同人会の最初の展覧会の記録はないし,機関誌『芸南文化』創刊号(同年8月)にも南の記述は見いだせない。南の寄稿が載るは,第2号(同年12月)であるし,同人会関係の展覧会への出品も秋の美術展(同年10月)からであることから,早くても夏以降ということになる。これは浜本少年の記憶「南先生の参加はかなりたってからだったと思う」に一致する。ただし,同年2• 3月,南は,戦後最初の日展の審査員に委嘱されたのにともない,東京へ行っていたことから,出品も寄稿もできなかったとも考えられる。(詳細年表参照)(13) 広島市在住の画家。新制作協会を中心に活動。浜本氏の記憶によると,南の紹介で展覧会に出品。(16) 『芸南文化』「編集後記」(17) 「毎月会員の会費五円で未納が増え(略)印刷費が高くなる(略)一号二号は活字なつかしく皆無料で有名作家の御寄稿をえたものの三号になるとなかなかそうはいかぬ」ために廃刊になった。(中野前掲書No.16• 2頁)(18) 『芸南文化』創刊号35頁(「『仮面』と『芸南文化』」編集長中村郁夫著)No.16 • 7頁)(1946年3月)より以前であるという。そうすると,南の参画は同人会発会(同年2月)直後ということになる。しかし,この3月の展覧会には,南自身の出品(14) 『呉市史』第7巻550頁(15) その他に,体育部,演劇部,企画部などの記述もみられる。-253-

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