理解できることでもある。この点を最初に指摘しておきたい。『絵画論』の公表は『1765年のサロン』の末尾に予告されたが,この部分は現行の『サロン』の版本にもあり,よく知られた事実である。『1765年のサロン』は1766年の元旦号から4号連載して絵画を論じたあと,残りの彫刻と版画の部分は,少し間をおいて6月15日号と7月1日号に掲載された。従って,『絵画論』の予告は7月1日号においてなされている。そして,1号間をおいて,8月1日号と15日号にその最初の2章が公表される。1日号の末尾には「続きは次号」とあるのに対して,15日号の末尾は「続きは今後の或る号に」となっている。そして,それが実現するのは11月15日号で,そのあと2号を続けて完結している。特に最後の12月15日号は3章を一挙に掲載して,無理やりに66年のうちにこれを完結させた,という印象を与える。そして,11月15日号と12月1日号の記事の末尾には,いずれも「続きは次号」の予告がある。これらの事実から,ディドロの執筆の時期を推定することができるだろう。すなわち,『サロン』評を書き終わったとき,ディドロは引き続き『絵画論』に取りかかることを考えていたが,おそらく未だ原稿は用意されていなかった。しかし,比較的短期間に最初の2章分を執筆した。その2回目を掲載した8月15日号の末尾の予告が「次号」でないということは,この時点では第3章の原稿が用意されていなかったことを物語っている。そこでディドロは夏から秋にかけての時期に,残りの5章をおそらく一挙に書き上げた。始めの2回について次号予告がつけられていることと,最後に3章分が一挙に掲載されたことが,その根拠になるだろう。ここで第7章の主題を考える上で重要なのは,第5■7章が一挙に掲載された,という事実である。一挙に掲載されながら,これら3章は区分されている。すなわちコンポジションを主題とする第5章と建築を主題とする第6章の間だけでなく,建築に関するとされる最後の2章の間にも区別が設けられている,ということである。もしも第7章が「第6章の補足」であるなら,これを分けて別の章とする必要は全くなかった,と考えられる(分量の点を言えば,この2章を合わせても,第4章や第5章よりも短い)。言い換えれば,これを分けてあるということは,第7章が第6章の補足であったとは考えられない,ということに他ならない。従って,『文藝通信』を手にとってみていたならば,校訂者が「ここに先立つ」を前の章と読み違えることはなかった,と思われる。では全体の補足としての第7章は何を主題とするものなのか,あるいはまとまりの-17 -
元のページ ../index.html#27