鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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1945年の『19世紀フランス彫刻』においてプノワは,こう記述する。「絵画が1848年1870年のレアリスム?に自然主義に到るのに対し,革命に遅れた彫刻は1870年まで,クールベの絵画に匹敵するレアリスムを創造しえなかった」(注3)。1986年のグランパレでの19世紀彫刻の展覧会でもこの見解は変わらない。彫刻のレアリスムは,絵画史の模倣として記述され,その歴史的特殊性は否定される。「絵画に遅れること20余年」(プノワ)にして表面化するとされる彫刻のレアリスムは,しかし,絵画史への追従によってもたらされたとは言い切れない。遅延としてのみ記されてきたこの1870年の彫刻のレアリスムには,さきのクレザンジェの作品にはない彫刻固有の重要な問題が潜んでいるように思われる。ブノワの歴史記述の問題点は,かれが主題にのみ注目して,彫刻のレアリスムを絵画のそれと同一視したことにある。それは,かれが1870年のレアリスムの代表的作家としてジュール・ダルー(1838-1902)を選択した事実に明瞭に表れている。社会主義を標榜したこの彫刻家は,コミューン参加後,ロンドンに亡命。79年の恩赦でフランスに戻るも,政治的立場を固持,労働者の記念碑制作を夢見る。88年には公式注文とはいえ,クールベの胸像さえ制作する。ようするにブノワは,クールベ(ープルードン)に連なる社会主義作家を抽出することで彫刻のレアリスムの画期を1870年に見出すのである。たしかに,ダルーのみならず,レアリストと目される彫刻家は,ヴェリスモを先導したスイス人ヴェラにしろ,炭坑地方ボリナージュを取材したベルギー人ムニエにしろ,1870年以降は,すぐれて杜会的かつ政治的な文脈のもとに労働者の悲劇を主題化してはいる。しかし,ダルーのレアリスムは,単に主題の水準でのみ表面化したわけではない。たとえば1885年のサロン展の『ブランキ』〔図2〕,あるいは小ナポレオンの従弟に暗殺された自由主義者『ノワール』(1891年のサロン)〔図3〕は,政治的作品でもあるが,一方で,その表現は,屈折した表現ながらも「彫刻における写真」と評され,写実表現の迫真性が論点のひとつとなった(注4)。その理由をいま一度問うてみたい。ここに彫刻のレアリスムにまつらう「死」の問題系が潜在しているからである。-271-

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