鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
284/711

否定的藝術とされるのが通例だった。友人からラプラスのデスマスクを贈られたとき,規範的彫刻論を遵守したダヴィッド・ダンジェはこう記している。「この複製物ほど憂鬱にさせるものはない。それは本質なきフォルムであり,内面なき人間である」。かれの墓碑観は,次のごときものとなる。曰く,「墓碑が肖像藝術にすぎぬなら,人間の表面のみを見ておればよい。だが藝術家が表現すべきは,フォルムを得て実体化するその内面である」(1843年)。彫像は,その「内面」によって観者を圧倒し,後ずさりさせ,遠くから崇められねばならなかった。抱擁などいざなうことなく。かれは,「表面」へのフェティッシュな執着を,彫刻家に禁じた。'---うしたフランス・アカデミーの模範的彫刻理念において,レアリスム彫刻の「節度のなさ」は,主題の通俗性のみならず,彫刻概念を逸脱する「法破り」として二重に機能した。もはやレアリスムの彫塑像は,「彫刻」ではなかった。逆にいえば,レアリスム彫刻は,「彫刻の死」を宣言するものであった。それゆえ,レアリスト彫刻が,フランス・アカデミーの周縁にいた彫刻家によって,表面化したとしても不思議ではなかった。ダルーは,1870年代,亡命中のロンドンで制作していたし,ヴェラはスイス,ムニエはブリュッセルで活動していた。77年,『青銅時代』でレアリスムの醜聞を醸したロダンもまた,パリでの成功を期待し,ブリュッセルで制作に励んでいた。さらに注目すべきは,レアリスム彫刻は,「彫刻家」という枠組みをも解体させた。ドガ,ジェロームら「画家」の手による,彫刻概念を逸脱する超現実的な作品が1870年以降,公共の場に登場し,好評をもって迎えられる。いわば,レアリスム彫刻は,「彫刻の死」のみならず「彫刻家の死」をももたらすことになった。越境する彫刻とその運命ギュスタヴ・ドレは1877年(45歳),ジェロームは1878年(54歳),ドガは1881年(47歳)に,それぞれ彫刻作品を世に問うた。そもそも彫刻のレアリスムを牽引したブリュッセルのムニエは,1880年(49歳)を境に画家から彫刻家となった代表例だといえる。こうした事実は,従来,画家それぞれの個人的問題として処理されてきたが,しかし,複数の「画家」が1870年以降,彫刻制作に向ったという事実は,この期に顕著と1870年を境として,複数の画家が彫刻家に「転向」した事実は極めて重要だろう。-274-

元のページ  ../index.html#284

このブックを見る