鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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19世紀フランスにおける彫刻のカノンにとって致命的であった。しかし,あらゆる基なる彫刻のレアリスムの歴史的特殊性を補強するものではないだろうか。実際,かれら画家が彫刻において実践したのは,1870年以降のレアリスムに顕著となるフェティシスムの追求にほかならなかった。かれらは,ブロンズはいうまでもなく,多色大理石,斑岩,テラコッタ,石膏,銀,瑶瑞,エマイユ,蜜蟻などあらゆる物質を使用し,作品のマティエールを強化した(ドガは絹布や人間の髪さえ利用した)。内面性の破壊としてダヴィッド・ダンジェが禁じた彫像表面へのフェティシスムを,かれらは,反動的と形容すべきまでに強調した。おもえば,「画家」ルドンが新たな藝術の理想を見出したのが彫刻作品であったように,「言語化不能」のレアリスム彫刻のフェティシスムは,彫刻家のみならずこの期の画家をつよく刺激した。彫刻のレアリスムは,50年代の絵画のレアリスムヘの追従どころではなく,逆に70年以降の絵画の方向性を確実に左右するものだった。モロー,メンツェル,イーキンスが,アトリエに人体鋳型や剥製を収集し,作品制作に用いていた事実,ルドンら象徴派の画家が同時代の彫刻作品をモティーフに絵画制作を行った事実,あるいは世紀末に向かって,ルノワール,ゴーギャン,マティスら著名な画家が彫像制作のなかから絵画の造形方法を模索したという事実,これらを,総合的に検討する作業もこれからの課題となろう。フランス・アカデミーの彫刻理念からの逸脱,白色大理石という素材の無視,彫刻家のフランスからの逃避,彫刻家という職業そのものの解体…。レアリスム彫刻は,準線を越境した「節度なき彫刻」は,まさにその性質ゆえに,フランスを中心として構想された近代美術史に刻まれ得なかった。その歴史の本流に,クールベの名はあっても,ヴェラ,ムニエの名はない。ドガは画家として記され,その彫刻は余技にすぎない。藝術家なきところに,その作品が近代藝術史上,登録されようもなかった。終わりに,1998年4月,ペール・ラシェーズにて藝術史からの排他は,いわば彫刻のレアリスムの本質的宿命ではあった。しかしその結果はといえば,単に標準的な藝術史からの疎外という水準にとどまらず,さらなる悲劇を生んでいる。基準を踏み外した「節度なき彫刻」は,「節操ある」観客を育成する美術館から締め出しをくらい,いまもその多くが倉庫で埃にまみれ,また墓地や街頭で風雨に晒される。そればかりか,美術館を一歩離れた観光客の「無節操さ」--275--

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