鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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⑳ 九品来迎図と場との相関関係について研究者:京都大学大学院文学研究科博士課程大原嘉豊本論では九品来迎図と「場」の問題を扱う。九品来迎という主題は,宗教的礼拝・祈繭の対象足り得るものではなく,阿弥陀堂という建築空間と結び付くことによってしか展開を遂げ得なかったという特殊性を持ち,しかも,九品来迎図の建築空間の装飾としての独立的な使用はあくまで本邦で成立したと推測される。にもかかわらず,九品来迎図とその使用された場との問題に十分な議論が不足している観が否めないからである。九品来迎図の造形化は,中国では,初唐代と考えられる。それまでは,『大無量寿経』の連華化生図の伝統に根差す九品往生図(蓮華化生図)が主体であった。が,善導の登場で,教理的な重要性が与えられたため,絵画化の機運が生まれたのである。但し,単独では描かれず,浄土変の周囲に付加されて経意を図示する従属的な地位にあった。日本でも,平安時代前期までは同様であったが,中期になり,藤原道長が無量舟院と呼ばれる所謂「九体阿弥陀堂」を作った際に,半ば独立的に大画面に描かれるようになり,それが一つの規範となって以降描き続けられた。しかし,先述のように九品来迎図は,所詮は阿弥陀堂建築の装飾画という機能以上の積極的意味を持ち得なかったために,建築の滅亡とともに失われたものが多く,今日,天喜元年(1053)の平等院鳳凰堂壁扉画,天永3年(1112)頃の鶴林寺太子堂仏後壁画13世紀末の瀧上寺本の3点しか残存していない。この遺品の制約が研究に被害を与えていたため,文献例も参考にして,現存遺品の画面形式から建築空間を再考する。平等院鳳凰堂壁画や鶴林寺太子堂仏後壁画は,本格的仏堂建築に描かれたものである。特に,平等院本は,当時の九品来迎図の典型と目されるが,景が画面の主体を占め,そこに四季絵の要素を持つ点が注意される。更に,来迎の差異化を無視した表現は,観経の図解性を希薄にし,景の役割をより重くしている。そこに大和絵山水図が開けていることは,それが貴族達の意識によることを示す。これが平安時代以降一般的なスタイルとして継承されることは,瀧上寺本が証しており,その文化基準が持続・継承された事実を示す。-279-

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